初心者のクラシック

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「音楽の父」ヨハン・セバスチャン・バッハ(第8話)

2007年09月19日 | 作曲家の生涯
たまには、作曲家の生涯にふれてみてはいかがですか?

有名な作曲家にはその真偽はともかくとして、たくさんの興味深いエピソードがあります。
そんな興味深いエピソードを中心に作曲家の生涯をたどっていきます。

今日は「音楽の父」ヨハン・セバスチャン・バッハ(第8話)です。

≪作曲家の肖像≫
バッハ:無伴奏ヴァイオリンのためのパルティータ全曲
シェリング(ヘンリク),バッハ
ユニバーサルクラシック

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【Johann Sebastian Bach】

ケーテンのレオポルト侯と、保養地カールスバートへ向かったバッハ。その頃ケーテンでは一体何が?!今日はその続きからです。

(第8話)【ケーテンの苦悩】
1720年、レオポルト侯と供にカールスバートを訪れていたバッハが、ケーテンに戻ってみると…、なんと妻のマリアが急逝してしまっていたのでした。
バッハを待っていたのは10歳前後の4人の子供たちだけ、おそらく帰ってきた父親のバッハをすがるような目で見つめていた事でしょう。

このときバッハは35歳、急逝したマリアもまだ36歳ですから当時としても決して天寿をまっとうしたとは言えない若さでした。

バッハが妻マリアを失ったちょうどこの頃から、ケーテンの宮廷楽団は規模縮小に向かっていくのでした。レオポルト侯の音楽に対する興味が薄れてきたのか?あるいはケーテンの財政が悪化していたためなのか?原因は定かではありませんが、宮廷楽団に対するレオポルト侯の力の入れ方が以前よりなくなってくるのでした。

こうなると、バッハのいつもの腹のムシがウズウズと首をもたげてきます。
そしてちょうど同時期にタイミングよく、ハンブルクでは聖ヤコビ教会のオルガニストが亡くなり、その後任を探していたのでした。

これまでの経緯からしても、今のバッハがこれに飛びつかない訳もなくバッハは聖ヤコビ教会オルガニスト採用試験を受けるべく、ハンブルクへ向かいます。

ハンブルクのオルガニスト選考試験は11月末に行われる予定でしたが、12月にはレオポルト侯の誕生日を祝う行事があったため、試験当日ハンブルクに滞在する事が困難な状態だったバッハは、試験前にケーテンに戻る前に、オルガンの演奏会を行います。

この演奏会には当時、巨匠と呼ばれていたオルガニストのラインケンも聴衆として参加していたのでした。そしてこのラインケンがバッハの演奏会を絶賛するのでした。

試験には参加できないまでも、当時97歳のラインケンが絶賛したバッハをハンブルクの試験官も無視する事は出来なくなり、更に試験当日に集まった他のオルガニストの演奏がイマイチだった事も重なり、ハンブルクの後任オルガニストはバッハに大きく傾くのでした。

ところが、ところが、ほばバッハに決まりかけていたこの話を、バッハは断るのでした。
その理由は、後に決まった聖ヤコブ教会の後任オルガニストが教会に対して多額の礼金を支払っていた事から、バッハがこの慣習を嫌っての事ではないかと言われているようです。


妻の突然の死という、急な出来事に加えてケーテンでは何故か宮廷楽団の規模縮小、新たな道を模索するバッハのつづきはまた明日。

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