たまには、作曲家の生涯にふれてみてはいかがですか?
今日は「音楽の父」ヨハン・セバスチャン・バッハ(第10話)です。
≪作曲家の肖像≫
【Johann Sebastian Bach】
いつの時代も男性が女性に影響されてしまうのは同じなのかもしれません。レオポルト侯も、その例に漏れず妻の「音楽嫌い」に影響を受けてしまいます。このままでバッハは大丈夫なのか?!今日はその続きからです。
(第10話)【ライプツィヒへ】
ケーテンのレオポルト侯がフリーデリカと結婚し、宮廷楽団への関心が薄れていくのを感じたバッハは、いよいよ本格的にケーテンを去ることを考え始めます。
1722年、ライプツィヒの聖トーマス教会でカントル(音楽監督)を務めるクナーウが他界すると、バッハはこれに注目します。
しかし、聖トーマス教会が最初に目星をつけたのは、当時ハンブルクに居たテレマンだったのです。ところがテレマンとは、条件面で折り合いがつかず、結局この話は途中で流れてしまいます。
聖トーマス教会は募集を更に続けたため、バッハもこれに応募します。後任の候補者に教会が目をつけたのは、またしてもバッハではなくダルムシュタットの宮廷楽長でした。しかし、ダルムシュタットの君主が宮廷学長を引きとめたため、学長もこれを辞退します。
その後、1723年ようやくバッハも採用試験に漕ぎつける事になりますが、このときは他に2人の候補との競合になります。選考の結果バッハが採用となり、5月にケーテンからライプツィヒに移ることになります。
ライプツィヒに移ったバッハは、音楽監督の仕事と聖トーマス教会付属の学校でラテン語を教えるという仕事もしなければなりませんでした。これは採用時に含まれていた契約で、この契約が辞退者を続出した要因のひとつだとも言われているようです。
そのため、ケーテン時代とは違いかなり多忙な日々の生活を送ることになったようです。教会音楽の盛んだったライプツィヒでは毎週行われる礼拝のためのカンタータの作曲が復活し、音楽監督を務める楽団の練習、教会で歌うカンタータの指導、更にはラテン語の授業等々、めまぐるしいまでの多忙さだった事が想像されます。
こうして、ライプツィヒに来てから2・3年はカンタータの作曲を熱心に行っていたようですが、落ち着いてくると、別の教会に勤めていた従兄から送られてきたカンタータを演奏したり、ライプツィヒに来る前に書いていたカンタータを流用することで、その作曲にもようやく、解放されることになるのでした。
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ケーテンから新天地ライプツィヒに来てはみたものの、カンタータの作曲に毎日を費やすバッハ。数年でそれも落ち着いてきたようですが、このつづきはまた来週。
【その他の作曲家の生涯はこちら】
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いつの時代も男性が女性に影響されてしまうのは同じなのかもしれません。レオポルト侯も、その例に漏れず妻の「音楽嫌い」に影響を受けてしまいます。このままでバッハは大丈夫なのか?!今日はその続きからです。
(第10話)【ライプツィヒへ】
ケーテンのレオポルト侯がフリーデリカと結婚し、宮廷楽団への関心が薄れていくのを感じたバッハは、いよいよ本格的にケーテンを去ることを考え始めます。
1722年、ライプツィヒの聖トーマス教会でカントル(音楽監督)を務めるクナーウが他界すると、バッハはこれに注目します。
しかし、聖トーマス教会が最初に目星をつけたのは、当時ハンブルクに居たテレマンだったのです。ところがテレマンとは、条件面で折り合いがつかず、結局この話は途中で流れてしまいます。
聖トーマス教会は募集を更に続けたため、バッハもこれに応募します。後任の候補者に教会が目をつけたのは、またしてもバッハではなくダルムシュタットの宮廷楽長でした。しかし、ダルムシュタットの君主が宮廷学長を引きとめたため、学長もこれを辞退します。
その後、1723年ようやくバッハも採用試験に漕ぎつける事になりますが、このときは他に2人の候補との競合になります。選考の結果バッハが採用となり、5月にケーテンからライプツィヒに移ることになります。
ライプツィヒに移ったバッハは、音楽監督の仕事と聖トーマス教会付属の学校でラテン語を教えるという仕事もしなければなりませんでした。これは採用時に含まれていた契約で、この契約が辞退者を続出した要因のひとつだとも言われているようです。
そのため、ケーテン時代とは違いかなり多忙な日々の生活を送ることになったようです。教会音楽の盛んだったライプツィヒでは毎週行われる礼拝のためのカンタータの作曲が復活し、音楽監督を務める楽団の練習、教会で歌うカンタータの指導、更にはラテン語の授業等々、めまぐるしいまでの多忙さだった事が想像されます。
こうして、ライプツィヒに来てから2・3年はカンタータの作曲を熱心に行っていたようですが、落ち着いてくると、別の教会に勤めていた従兄から送られてきたカンタータを演奏したり、ライプツィヒに来る前に書いていたカンタータを流用することで、その作曲にもようやく、解放されることになるのでした。
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ケーテンから新天地ライプツィヒに来てはみたものの、カンタータの作曲に毎日を費やすバッハ。数年でそれも落ち着いてきたようですが、このつづきはまた来週。
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