初心者のクラシック

有名な曲からおすすめの曲まで、できるだけ初心者にも分かり易く紹介します。

モーリス・ラヴェル(最終話)

2008年02月27日 | 作曲家の生涯
たまには、作曲家の生涯にふれてみてはいかがですか?

今日はジョセフ・モーリス・ラヴェル(最終話)です。

≪作曲家ゆかりの曲≫
ラヴェル:ピアノ協奏曲
アルゲリッチ(マルタ)
ユニバーサル ミュージック クラシック

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【Joseph-Maurice Ravel】

アメリカの演奏旅行を終えて、ボレロを作曲し勢いに乗るラヴェル。次はピアノ協奏曲に取りかかるラヴェルですが、今日はその続きからです。

(第8話)【2つのピアノ協奏曲】
2つのピアノ協奏曲を作曲する事になったラヴェル。ひとつは自分が演奏するために作品ですが、もうひとつは戦争で右手を失ったピアニストのための作品です。

そして、ふたつのうち先に完成したのは「左手のためのピアノ協奏曲」でした。1931年にウィーンで初演が行われる事になりますが、依頼主であるヴィトゲンシュタインがこのピアノを演奏します。

ところが、ラヴェルの作品があまりにも技巧的すぎたのか?あるいは単純に曲が好みに合わなかったのか?
ヴィトゲンシュタインは、作曲者のラヴェルに何の断りもなく勝手に譜面を書き換えて、初演をサラッと弾きこなしてしまうのでした。

そのため、これを聞いたラヴェルはその後、ヴィトゲンシュタインとの仲が疎遠になってしまいます。

一方、もうひとつの「ピアノ協奏曲」がその後、完成するとラヴェルはこれを念願どおりに自分でピアノを演奏しようとしますが、この頃から体調が優れなかったラヴェルは、医者の勧めもあって、ピアノ演奏はあきらめて指揮のみで参加し、ピアノは組曲「クープランの墓」のときと同じピアニストのマルグリット・ロンが演奏する事になります。

こうして1932年パリで「ピアノ協奏曲」が初演されると、この曲は好評を受け、その後はこの曲とともにまた演奏旅行を続けていたようですが、

そんな1932年秋ごろ、突然の事故がラヴェルを襲います。
パリでタクシーに乗っていたラヴェルは交通事故に遭います。この事故のために脳に損傷を受けたラヴェルは、周りとの意思疎通が非常に困難になってしまいます。

楽譜はもちろん文字も事故前ほどは、思うように書けず、何よりも辛かったのは新しい曲が頭に浮かんでもそれを楽譜に書き起こすことができなくなってしまうのでした。

それでも、どうにか意欲的に音楽活動を続けようと各地を奔走します。しかし、病状は徐々に悪化する一方だったため、1937年、周囲の計らいもあって手術に踏み切りますが、これが失敗し数日後に世を去ってしまうのでした。享年62歳の生涯でした。


現在ではフランスを代表する大作曲家ラヴェルですが、交通事故が原因で寿命が短くなってしまうなんて、しかも、それがために作曲が困難になってしまうとは・・・、歴史に「もしも」はありませんが、もし、事故に遭わなければ、経験を積んだ晩年のラヴェルなら現在にも残る名曲をもっと生み出していたハズなんでしょうが、一番無念だったのはラヴェル本人なのかもしれません。

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モーリス・ラヴェル(第7話)

2008年02月26日 | 作曲家の生涯
たまには、作曲家の生涯にふれてみてはいかがですか?

今日はジョセフ・モーリス・ラヴェル(第7話)です。

≪作曲家ゆかりの曲≫
ボレロ~ラヴェル:管弦楽曲集
デュトワ(シャルル),モントリオール交響合唱団
ユニバーサル ミュージック クラシック

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【Joseph-Maurice Ravel】

第一次大戦を経て「ク-プランの墓」を作曲し、その後も作曲を続けながらヨーロッパ各地を演奏旅行するラヴェル。今日はその続きからです。

(第7話)【アメリカ演奏旅行】
演奏旅行でヨーロッパ各地を転々とするラヴェルでしたが、1928年には、いよいよアメリカ大陸へ渡ることになります。

フランス、パリでは賛否両論の飛び交うラヴェルの作品でしたが、アメリカではニューヨーク、ボストンをはじめ高い評価を受け、聴衆からも大絶賛を受けるとともに多大な報酬を手にする事ができたのでした。

そしてアメリカでは既に「ラプソディ・イン・ブルー」で成功していたガーシュウィンに会うと、「フランスの作曲家に学びたかった」と、言われたラヴェルは「あなたはもう一流のガーシュウィンじゃないですか。二流のラヴェルになるおつもりですか」と言ったという逸話も残されているようです。

こうして4ヶ月に渡るアメリカ演奏旅行を終えて、フランスに帰国したラヴェルは、バレエ音楽の作曲を依頼されます。そして完成したのが、「ボレロ」だったのです。

今でこそ、ラヴェルの代名詞とも言えるこの曲は、クラシックでも人気があって、一般的にも有名なメロディのこの曲ですが・・・、とにかく同じメロディがひたすら繰り返されるこの曲。
1928年にパリのオペラ座で初演されると、演奏を聴いた一人の女性が「作曲者は狂っている!」と叫ぶと、その事を聞いたラヴェルは「その女性こそこの曲の真の理解者だ」と言ったという。なんともシャレたエピソードもあるようです。

翌1929年にはアメリカでの成功を受けて自らが演奏するための「ピアノ協奏曲」の作曲に取り掛かります。

ピアノ協奏曲の作曲中、別の作品の作曲依頼が入ります。第一次大戦によって右手を失ったピアニストのパウル・ヴィトゲンシュタインからの依頼で、それは左手だけで弾けるピアノ協奏曲を作曲する事でした。


アメリカでは大喝采を受けるラヴェル。パリでは「ボレロ」がまたしても賛否両論?!のような展開を見せるラヴェルでしたが、次はピアノ協奏曲に挑みます。このつづきはまた明日。

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モーリス・ラヴェル(第6話)

2008年02月25日 | 作曲家の生涯
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今日はジョセフ・モーリス・ラヴェル(第6話)です。

≪作曲家ゆかりの曲≫
ラヴェル:ピアノ曲全集
ロジェ(パスカル)
ユニバーサル ミュージック クラシック

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【Joseph-Maurice Ravel】

第一次大戦がはじまると志願兵として従軍するラヴェル。体調を崩して帰ると、今度は母親の不幸。今日はその続きからです。



(第6話)【「クープランの墓」にこめた思い】
戦地からの帰郷、そして母親の死を目の前にして、打ちひしがれていたラヴェルでしたが、どうにか作曲だけはつづけていくのでした。

戦争がはじまった頃から、手をつけていた組曲「クープランの墓」を仕上げていきます。愛国心が強かったと言われるラヴェルは、そのあまり第一次大戦にも志願兵として名乗りを上げるほどでしたが、その情熱は音楽に対しても同じくらいの思いがあったようです。

組曲「クープランの墓」のタイトルにある“クープラン”はフランスのバロック音楽の大家として有名な作曲家で、ラヴェルも大変尊敬していたようです。そんなクープランをはじめとするフランス音楽のために捧げる音楽をつくろうと、1914年頃からこの作品に取り掛かります。

そして、作曲の途中に大戦を迎え、自らも戦地へと赴く中でラヴェルの友人たちも、多くが亡くなってしまうのでした。そして母親の死。ラヴェルは作曲を続ける中で、フランス音楽と同時に亡くなった友人たちにも“捧げる”という思いを込めて作曲した。とも言われるように、さまざまな思いを込めてこの曲を完成させていくのでいた。

1919年、初演は大戦で未亡人になっていたマルグリット・ロンのピアノで演奏されるのでした。これを受けて、1920年ラヴェルはレジオンドヌール勲章を授与しますが、これを辞退してしまうのでした。

フランスでも名誉あるこの勲章をラヴェルが辞退したことに、周囲の人間は物議を醸します。ラヴェルとしては、他人の死に便乗して自分だけが栄誉を受けることを嫌っていたのかもしれませんが、
過去の“ローマ大賞”落選から、こういった“賞”や“評価基準”的なもの自体に一種の嫌悪感を抱いていたために、この受勲を事態したのではないかとも言われています。

1923年、体調がやや回復の兆しを見せると、ヨーロッパ各地を周る演奏旅行へと出かけます。イタリア、ベルギー、オランダ、スペイン、イギリス等々、各地を回りながら、「子供と魔法」、「マダガスカル島民の歌」「ヴァイオリン・ソナタ」を作曲、初演してくのでした。


フランス音楽や戦争で失った友人のために作曲された「クープランの墓」。勲章は辞退しましたが、自らの作品とともに演奏旅行の日々を続けるのでした。このづづきはまた明日。

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モーリス・ラヴェル(第5話)

2008年02月22日 | 作曲家の生涯
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今日はジョセフ・モーリス・ラヴェル(第5話)です。

≪作曲家ゆかりの曲≫
ラヴェル:バレエ音楽〈ダフニスとクロエ〉
ブーレーズ(ピエール),ベルリン放送合唱団
ユニバーサル ミュージック クラシック

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【Joseph-Maurice Ravel】

スペイン狂詩曲が注目される中、父親の不幸に落ち込むラヴェルでしたが・・・、今日はその続きからです。

(第5話)【第一次世界大戦】
父親の死をどうにか乗り越えながら、ラヴェルは音楽に取り組みます。その甲斐もあってか、やや波乱含みではあるものの、その作品は話題を呼び作曲家ラヴェルの名声も次第に大きくなっていくのでした。

そんなラヴェルの名声を聞きつけたのか、1909年にロシア・バレエ団のディアギレフから、「ダフニスとクロエ」の作曲を依頼されるのでした。

このディアギレフ率いるロシアバレエ団は、パリで既に成功を収めていたため、次の公演のために新作を求めて、新人の作曲家にその音楽を依頼します。そのひとりがラヴェルだったのでした。

そして遂に完成した「ダフニスとクロエ」が1912年に初演されると、大成功を収めるのでした。この成功をきっかけに作曲家ラヴェルも一躍有名になっていきます。

作曲家としても、ようやく名前の売れてきたこの頃、1914年第一次世界大戦が勃発します。
ラヴェルはこの時、既に39歳になっていましたが、「祖国のために!」とフランス軍に志願するのでした。

小柄だったラヴェルは、最初に空軍に志願したようですが、徴兵検査にひっかかってしまい、入隊を拒否されてしまいます。しかし、どうしても諦めきれなかったラヴェルは、どうにかして志願し、輸送部隊に配属となり1916年からいよいよ戦地に赴く事になります。

ところが、いざ戦場に着いたものの、ラヴェルにとって戦地は想像以上に過酷なものだったのか?早くも赤痢を患ってしまい、戦場から引き返し病院に入る事になってしまいます。

結局、散々な思いをして戦地から引き返してきますが、悪い事は重なるもので、1917年母親が亡くなってしまうのでした。
体調を崩し戦地から帰ってくると、まるで追い打ちをかけるように不幸がラヴェルを待ち受けていたのです。

「なんでオレだけがこんなヒドイ目に遭うんだろう!」度重なる不運にラヴェルもきっと打ちひしがれていた事でしょう。


「ダフニスとクロエ」でようやく名前が売れてきたラヴェルでしたが、大戦の中、愛国心のあまり従軍するも、体調不良で引き返し、そこへ母の死が突き付けられてしまうラヴェル…。このつづきはまた来週。

このブログの組曲「ダフニスとクロエ」第2組曲の記事はこちら

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モーリス・ラヴェル(第4話)

2008年02月21日 | 作曲家の生涯
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今日はジョセフ・モーリス・ラヴェル(第4話)です。

≪作曲家ゆかりの曲≫
ラヴェル:管弦楽曲集(第1集) ボレロ/スペイン狂詩曲/ラ・ヴァルス
パリ音楽院管弦楽団
EMIミュージック・ジャパン

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【Joseph-Maurice Ravel】

度重なる“ローマ大賞”への挑戦も虚しく不本意な結果に終わってしまうラヴェルでしたが、今日はその続きからです。

(第4話)【批判とスペイン狂詩曲】
ローマ大賞こそは逃してしまったものの、作曲家としての道を歩むべく作曲を本格的にはじめたラヴェルは1906年に歌曲集「博物誌」を作曲し初演します。

ところが、この曲に対して(スペイン交響曲で有名なラロの息子)ピエール・ラロから「これはドビュッシーの盗作だ!」として非難を受ける事になってしまいます。

これにめげず?同時期に作曲した「スペイン狂詩曲」が1908年に初演されると、まずまずの成功を収め、スペインの作曲家ファリャからも絶賛を受ける事が出来たのでした。

この「スペイン協奏曲」は4部構成で出来たオーケストラ作品でしたが、3曲目の「ハバネラ」だけは既に1895年にピアノ曲として完成していたものでした。この曲と他3曲を合わせて「スペイン狂詩曲」として初演されたのですが、3曲目の「ハバネラ」が加えられたのは、その後1903年にドビュッシーの作曲したピアノ曲「版画」の第2曲「グラナダの夕べ」を聴いたラヴェルが「自分のハバネラに似てない?!」なんて事を言ったとか言わなかったとか・・・。

そんないきさつがあったため、ピエール・ラロからの批判にあてつけるために、ラヴェルは、わざわざ既に作曲していた「ハバネラ」を新作の「スペイン狂詩曲」に取り入れる事によって、批判を逆手に取ろうとしたのではないか?という説までささやかれるようになるのでした。

ともあれ、「スペイン狂詩曲」はその後も大きな支持を集め、現在ではラヴェルの作品を代表する一曲になっている事だけは間違いないようです。

スペイン狂詩曲が話題になっていた頃、1908年父のジョセフが亡くなるのでした。数年前から体調を崩し、闘病生活を送っていた父でしたが・・・、思えば父親のピアノを聴いて育ったラヴェルが、その道を選んだ事にも大きく影響を与え、息子ラヴェルのよき理解者でもあった父ジョセフの死は、少なからずラヴェルにショックを与え、その後しばらくはラヴェルも失意の日々を送るのでした。



せっかくの作品を“盗作”呼ばわりされてしまうラヴェルでしたが、スペイン狂詩曲を初演すると、その汚名もいくらかは返上することができたようです。しかしながら、父親の死に触れることになってしまったラヴェル。このつづきはまた明日。

このブログの「スペイン狂詩曲」のきじはこちら

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モーリス・ラヴェル(第3話)

2008年02月20日 | 作曲家の生涯
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今日はジョセフ・モーリス・ラヴェル(第3話)です。

≪作曲家のゆかりの曲≫
ラヴェル:作品集
オムニバス(クラシック),ニュー・イングランド音楽院合唱団
ユニバーサル ミュージック クラシック

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【Joseph-Maurice Ravel】

パリ音楽院では様々な作曲家との出会いにより、それぞれの音楽に興味を示し、影響を与えあうラヴェル。今日はその続きからです。

(第3話)【ローマ大賞】
パリ音楽院で多くの音楽家に出会いながら、その多くの作品に触れる事になったラヴェルは、フォーレの薦めもあって、ローマ大賞に挑戦する事になります。

この“ローマ大賞”は音楽をはじめ建築・絵画・彫刻などの芸術を振興するためにフランスで行われたコンクールみたいなものですが、音楽部門(作曲)では、かつてベルリオーズが大賞を受賞し、サン=サーンスは2度の挑戦も虚しく大賞を逃し、ラヴェルの敬愛するドビュッシーも1884年に大賞を受賞していたのでした。

1901年、カンタータ「ミルラ」でローマ大賞に挑んだラヴェルでしたが、この年は惜しくも2位にとどまります。翌1902年と、更に翌年の1903年にも続けて応募しますが、念願のローマ大賞を受賞する事はできませんでした。

1904年は冷却期間として応募を見送り、1905年、心機一転改めてローマ大賞に応募しますが、この時既に30歳を迎えていたラヴェルは「年齢制限」を理由に、応募自体を無効とされてしまうのでした。

ところが、この「年齢制限」による理不尽な無効を、快く思わなかったのはラヴェルだけではなく、恩師フォーレも抗議をし、作家ロマン・ロランもその抗議に加わると、この「ローマ大賞」を管轄する大臣にまで抗議文を送るなどの一大スキャンダルに発展してしまうのでした。

結局、この審査に加わっていたパリ音楽院の院長テオドール・デュポワ他、数名の教授が辞職する事で事態は幕引きとなりましたが、ラヴェルのローマ大賞に対する決定は変わらず、評価の対象にならないままの形になってしまうのでした。

この事が後に、「ラヴェル事件」と呼ばれるようになり、「ローマ大賞」自体のあり方にも疑問を投げかけるような事件として語られるようになるのでした。


ローマ大賞を狙って何度も挑戦するラヴェルでしたが、最後はなんとも後味の悪い結果になってしまいましたが、このつづきはまた明日。


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モーリス・ラヴェル(第2話)

2008年02月19日 | 作曲家の生涯
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今日はジョセフ・モーリス・ラヴェル(第2話)です。

≪作曲家の肖像≫
500円クラシック(10)ラヴェル&ドビュッシー
オムニバス(クラシック)
エイベックス・クラシックス

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一応右がラヴェルです
【Joseph-Maurice Ravel】

パリ音楽院に若くして学んだものの、あまり熱心には勉強していなかったラヴェルのようですが・・・、今日はその続きからです。

(第2話)【パリ音楽院】
パリ音楽院では、あまり真面目な生徒では無かったようですが、そんなラヴェルは学生時代にも様々なエピソードを残しています。

狂詩曲「スペイン」を作曲した(1883年)作曲家シャブリエにも興味を示し、ラヴェルもこれに強く影響を受けるようになっていきます。

また、1893年には父ジョセフの紹介でエリック・サティとも知り合います。当時のパリではサティの音楽は、その斬新な作風のあまり、異端児扱いされていたようですが、ラヴェルにとってはこの斬新な音楽が新鮮に聴こえたのでしょうか?サティの音楽にも強く関心を示していくのでした。

1897年22歳のときに、パリ音楽院でも多くの出会いと音楽を吸収していたラヴェルの元に、チュニジアで音楽を教える仕事の話が持ち上がります。しかし、常に新しい音楽が生まれるパリには刺激的な音楽を共に味わう友人も多くおり、協力者であり、よき理解者でもある家族の元を離れる事を気にかけたラヴェルはこの話を断り、パリに踏み留まるのでした。

その後もパリ音楽院で学び続けるラヴェルでしたが、1898年にガブリエル・フォーレが作曲の教授に就任すると、彼の講義にも強く関心を示し、フォーレの下で作曲を学んでいくのでした。

フォーレの講義を受けながら、音楽院では大きな出会いがあるのでした。それはドビュッシーとの出会いでした。フォーレと共にパリの音楽家が集まるサロンでドビュッシーと知り合う事になったようですが、ラヴェルは彼の音楽にも強く興味を持ち、その後も敬愛の念を持って接するようになっていきます。

そんな中、既にいくつかの作品を作曲していたラヴェルですが、この頃1899年24歳になると、ルーヴル美術館にある画家ベラスケスの描いた王女の肖像画を見て、これに触発されると、まずはピアノ曲として、現在でも彼の代表作と言われる「亡き王女のためのパバーヌ」を作曲しています。

こうして、新しい音楽に次々と接していくラヴェルは、この事が後の作風にも大きく影響を受ける事にるのでした。


パリ音楽院に入った当初はそれほど真面目に取り組んではいなかったようですが、ドビュッシーをはじめ、フォーレ、サティなど名だたる作曲家との出会いにより新しい音楽に出会っていくのでした。このつづきはまた明日。

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ジョセフ・モーリス・ラヴェル(第1話)

2008年02月18日 | 作曲家の生涯
たまには、作曲家の生涯にふれてみてはいかがですか?

有名な作曲家にはその真偽はともかくとして、たくさんの興味深いエピソードがあります。
そんな興味深いエピソードを中心に作曲家の生涯をたどっていきます。

今日はジョセフ・モーリス・ラヴェル(第1話)です。

「ボレロ」や「スペイン狂詩曲」など有名な曲を作曲したり、「展覧会の絵」では見事な編曲でそのオーケストレーションも魅力的なラヴェルは、どんな生涯を送っていたんでしょうか?

≪作曲家の肖像≫
ラヴェル:ピアノ協奏曲
フランソワ(サンソン)
EMIミュージック・ジャパン

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【Joseph-Maurice Ravel】

【フランス】
【1875~1937】
【近代】

(第1話)【父とピアノ】
1875年、ラヴェルはフランス南西部スペインに近いバスク地方の都市シブールに生まれます。父のジョセフはスイス近郊で生まれますが、ピアノや絵画、発明など多彩な能力をもっており、仕事でスペインに行くと、後の妻マリーと出会い、結婚します。ラヴェルが生まれると、家族はパリに移り住み定住する事になるのでした。

元々ピアノが弾ける父ジョセフが、家でもよくピアノを弾いたため、幼いラヴェルも自然にピアノに触れる機会があり、早くから父とピアノ連弾をこなしたという話もあるようです。

しかし、パリに移ったラヴェル一家の生活は楽なものではなかったようです。というのも、父ジョセフは発明家としての道を歩んでいたため、その研究・開発費等がかさみ、決っして裕福な生活を送ってはいなかったのでした。

金銭的には裕福な暮らしでは無かったようですが、妻のマリーも夫をしっかりと支えながら家族を励ましていたため、貧しいながらも明い家庭生活を送っていたのかもしれません。

さて、少年ラヴェルは父と共にピアノを弾くうちに、これがとても楽しくなったようで、メキメキとその実力を発揮していきます。
そんな息子ラヴェルの才能をこれと見込んだ父ジョセフは、ラヴェルが7歳になる頃には、本格的にピアノを学ばせるため、ピアノ教師アンリ・ギイの元へ通わせるのでした。

アンリの他にも様々なピアノ教師から多くを学び取っていったラヴェルは、1889年、14歳になると、パリ音楽院に入学する事になります。

14歳という若さで名門パリ音楽院に通う事になったラヴェルでしたが・・・、この頃には、早くも音楽に飽きてしまったのか?それとも思春期や反抗期だったのか?それほど熱心に勉強をしている様子が見られないのでした。
授業には遅刻をしてみたり、また授業中でも気を散らしていたらしく、なかなか勉強に集中する事ができずにいたのでした。


幼い頃からピアノに親しんで育ったラヴェルでしたが・・・、早くもパリ音楽院には入ったものの、イマイチ音楽に集中できないようですが…、このつづきはまた明日。

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カミ―ユ・サン=サーンス(最終話)

2007年11月27日 | 作曲家の生涯
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今日はシャルル・カミ―ユ・サン=サーンス(第10話)です。

≪作曲家ゆかりの曲≫
サン=サーンス: 交響曲第3番/動物の謝肉祭、他
オムニバス(クラシック),バンブリー(グレース),リテーズ(ガストン),ロジェ(パスカル),パリ管弦楽団,アルゲリッチ(マルタ),パールマン(イツァーク),フランス国立管弦楽団,シカゴ交響楽団,ロイヤル・フィルハーモニー管弦楽団
ユニバーサル ミュージック クラシック

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【Charles Camille Saint-Saens】

サンサーンスが文字通り世界中を旅行している頃、パリではワーグナーの音楽がもてはやされます。今日はその続きからです。

(第10話)【批判】
パリではワーグナーの音楽がもてはやされる中、1904年、世界中を歩き回ったサンサーンスがパリに戻ってくると、かつてパリを訪れた青年ワーグナーの才能をいち早く評価していたサンサーンスでしたが、そんなワーグナーブームを評して「自分はワーグナーの作品は高く評価するが、自分の作風とは違う。」と、ポロッと言ったひと言が、売れっ子作曲家へのやっかみと、とたれたのか?少なくとも「保守的」と取られてしまい、その後ワグネリアン(熱心なワーグナーファン)からは批判の対象として恰好の餌食となってしまうのでした。

更に、この頃に近代音楽の旗手として名声を上げていたドビュッシーやストラヴィンスキーの作品に理解を示さなかったサンサーンスは、ドビュッシーから「サンサーンスはもう十分音楽を書いたのだから、探検家としての人生を送るべきだ・・・」と、旅行好きのサンサーンスを皮肉たっぷりに揶揄してみたり。

エリック・サティは「サンサーンスはドイツ人じゃない・・・、ただ頭が硬いだけだ・・・、(だからフランス近代音楽を理解できない)」と、なじられたり、往年のサンサーンスは若い作曲家たちからも批判の対象になってしまうのでした。

しかし、最新の音楽には理解を示さず「保守派」と言われたサンサーンスも、1908年、映画「ギース公の暗殺」の音楽を手掛け、世界初の映画音楽を作曲する事になります。16世紀の宗教戦争をモチーフにした映画のようですが、音楽の新しい展開を模索したサンサーンスは尚、意欲的に音楽活動を模索していたようです。

映画音楽を作曲したときサンサーンスは既に70歳を超えていたのでした。さすがに老いたサンサーンスは公の場からは引退を表明していたようですが・・・、

1914年、第一次世界大戦が勃発すると、彼の中から愛国心がメキメキと表れ、音楽を通じて国威高揚をすべく、フランス音楽をして様々な活動を展開するのでした。

一連のワーグナーブームに沸いていたフランスの中で、ワーグナーボイコット運動を起こしますが、敵国ドイツの反感を買ったのは勿論、フランス国内でも返って批判を浴びてしまう事になります。

更に、熱の入ったサンサーンスはドイツ・オーストリア音楽の演奏を禁止する運動にまで加わり、更なる批判を浴びてしまいます。

1918年休戦協定により第一次大戦が終わると、サンサーンスもようやく落ち着いた音楽活動をする事ができたようですが、さすがに熱心な運動からの心労からか?あるいは世界旅行からの長年の旅疲れが、ここにきて表れたのか?サンサーンスは病床に臥せてしまうのでした。

1921年、サンサーンスは療養のため、お気に入りだったアルジェリアに向かいます。しかし、病状は回復する事無く、サンサーンスは彼の地で帰らぬ人となってしまうのでした。

アルジェリアの都市アルジェで葬儀が行われた後、死体はすぐにフランスに戻され、パリではかつてオルガニストを務めたマドレーヌ聖堂で、国葬として葬儀が行われる事になるのでした。享年86歳は大往生と言えるでしょう。


その作品が、なかなか世間には認められない事の多いように見えたサンサーンスですが、それでも最後まで熱心に音楽活動を続けるサンサーンスは、フランス音楽の発展を誰よりも願っていたのかもしれません。
それにしても、世界旅行は圧巻でしたね。ドビュッシーじゃなくても旅行記の1冊や2冊ぐらい、すぐに書けそうな気がしますが、旅行中の体験は音楽にも繁栄されている事でしょう。

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カミ―ユ・サン=サーンス(第9話)

2007年11月26日 | 作曲家の生涯
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今日はシャルル・カミ―ユ・サン=サーンス(第9話)です。

≪作曲家ゆかりの曲≫
サン=サーンス:交響曲第3番
バレンボイム(ダニエル),シカゴ交響楽団,パリ管弦楽団,リテーズ(ガストン),モグリア(アラン),ヨルダノフ(ルーベン),サン=サーンス
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【Charles Camille Saint-Saens】

「動物の謝肉祭」や、「交響曲第3番」が完成し、成功するとようやく作曲家としての名声も獲得するようになったサンサーンスですが、今日はその続きからです。

(第9話)【世界旅行】
1888年、サンサーンス53歳の年に最愛の母親を亡くします。思えば幼い頃から、母一人子一人の生活を続けていたサンサーンス。時には作品に対す手厳しい評価まで言い放っていたと伝えられる母クレマンス・サンサーンスの死は、相当なショックがあったと思われます。

こうして母親が亡くなると、サンサーンスはパリの自宅と財産を故郷の町に寄付すると、またしてもパリから突如姿を消してしまうのでした。

突然のサンサーンス失踪が、パリでは噂を呼び、「サンサーンス死亡説」までが流れるほどだったようです。

その頃、当のサンサーンスは、フランスはパリを遠く離れ、スペインを南下してモロッコの先にあるカナリア諸島のラス・パルマ(スペイン領)に滞在していたのでした。
しかも“シャルル・サノワ”という偽名まで使っていたようですから、相当念の入った失踪計画だったようです。

以前、妻の前から姿を消した時もそうでしたが、最愛の存在を失ってしまうと周りから姿を消すようにして失踪していましたから、こういうときには誰とも話をしたくなくなってしまうのかもしれません。家財を処分してくるところを見ても、これらの行動はサンサーンスなりの自分自身のこころの切り替えか、あるいはケジメの付け方なのかもしれません。

その後も、旅好きだったサンサーンスはどこかに定住することなくヨーロッパ各国をはじめ、西はカナリア諸島からアルジェリア、エジプト、東へはギリシャからセイロン、そしてシンガポールまで、更にはユーラシア大陸を離れ、アメリカ大陸ではアメリカ横断、更に更に南米にまで足を延ばしていたとかいなかったとか、ほぼ世界一周を旅行しつくすのでした。

サンサーンスが、世界を駆け巡っている間にパリではワーグナーブームが巻き起こるのでした。過去にパリを訪れて演奏会を画策していた頃には見向きもされていなかったワーグナーでしたが、リストの支援もあってバイロイト音楽祭が開かれるようになると、パリの劇場ではワーグナー作品が上演されるていたのでした。


交通機関の未発達の時代に世界旅行とはスゴイデスねぇ!(というかうらやましい…)パリではワーグナーブームが起こっているようですが…、このつづきはまた明日。

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