初心者のクラシック

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「音楽の父」ヨハン・セバスチャン・バッハ(第12話)

2007年09月28日 | 作曲家の生涯
たまには、作曲家の生涯にふれてみてはいかがですか?

今日は「音楽の父」ヨハン・セバスチャン・バッハ(第12話)です。

≪作曲家ゆかりの曲≫
バッハ:イタリア協奏曲
グールド(グレン),バッハ
ソニーミュージックエンタテインメント

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【Johann Sebastian Bach】

さて、「このつづきは明日」と言って中2日空いてしまいましたが、ようやくその続きからです。スミマセン。

(第12話)【ライプツィヒでの苦悩】
1730年10月、平行線をたどるライプツィヒとの関係に業を煮やしたバッハは、若き日にリューネブルクにともに旅立った友人エールトマンに手紙を送ります。

出世していたエールトマンに対して宛てた手紙にはライプツィヒでの不遇を語り、彼を頼って新たな職を求めていたのかもしれません。

しかし、エールトマンから職を紹介してもらえる事は無かったようです。
1731年バッハは、新しい就職先としてドレスデンに目を向け訪問します。ドレスデンの教会で演奏を行うと、大好評を得ることになり、演奏家としてはその名を高めますが、それが即就職に結びつくのは難しい状況だったようです。

更に1733年、ザクセン選帝侯フリードリヒ・アウグスト1世が亡くなると、これに乗じてバッハはミサ曲を作曲し、後継者のアウグスト2世に献呈します。もちろんこれも選帝侯からお呼びがかかるのを狙っての事でしたが、これも思い通りにはならなかったようです。

更に選帝侯に売り込むため、一族の誕生日や祝典の度にカンタータなどの曲を送り、どうにか取り入ろうとするのでした。

その間、ライプツィヒでの仕事を続ける訳ですが、1734年、ライプツィヒのトマス学校の校長に就任すると、バッハと彼との対立が深刻にになっていきます。副指揮者の任命を巡って激しく争ったりもしていたようです。

また、バッハへの批判はそれのみに留まらず、1737年ハンブルクで新しく発行された音楽雑誌からも、その作風に対して批判される事になります。

こうして、ライプツィヒでは日に日に肩身が狭くなっていくのでした。
一方、それまで売り込んでいたザクセン選帝侯から1736年にようやく「宮廷作曲家」という称号を受ける事ができたようですが、これはあくまでも“肩書き”のみに留まり、バッハがライプツィヒから離れることはできなかったようです。


ライプツィヒから新しい士官を求めて、ザクセン選帝侯に売り込むバッハでしたが、なかなか思うようにならないバッハのようですが…このつづきはまた明日?!(たぶん)

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