たまには、作曲家の生涯にふれてみてはいかがですか?
有名な作曲家にはその真偽はともかくとして、たくさんの興味深いエピソードがあります。
そんな興味深いエピソードを中心に作曲家の生涯をたどっていきます。
今日は「音楽の父」ヨハン・セバスチャン・バッハ(第11話)です。
≪作曲家の肖像≫
【Johann Sebastian Bach】
さて、ちょっと間が空いてしまいましたが、バッハの続きです。
(第11話)【ライプツィヒでの対立】
ライプツィヒでカンタータの作曲を熱心に行うバッハでしたが、2・3年すると、どうにかこれも落ち着いてくるのでした。
ようやく落ち着いてくると、バッハもカントル(音楽監督)の仕事に本腰を入れようとします。それまで、礼拝で歌うコラールの選曲は本来カントルの仕事だったはずでしたが、バッハにはこの権限が与えられず選曲は教会の牧師に委ねられていたため、まずはこれを取り戻そうと画策します。
ところが、結局バッハのこの動きは認められず、それまで通りの権限に留まる事になります。
一方、1729年からはこれに代わってコレギウム・ムジクムの指導という新しい職務が課せられる事になります。
コレギウム・ムジクムとはライプツィヒにある学生を中心とした演奏団体の事ですが、これは1702年、テレマンによって設立されたようですが、その後バッハがライプツィヒに来た際には当地のオルガニストが指導を行っていました。しかし、そのオルガニストが1729年にライプツィヒから西の都市ゴータに赴任したため、その後任としてバッハがその任を引き継ぐ事になるのでした。
コレギウム・ムジクムの指導を行いながらこの楽団の定期演奏会で、自作の演奏を行っていたようです。演目としては、チェンバロ協奏曲や管弦楽組曲などが演奏されていたようです。
そんな中、1730年にライプツィヒ市からバッハに対するカントル(音楽監督)としての資質を問うような職務怠慢を指摘した議題が上ってしまいます。バッハはその多忙から、その職務のひとつである授業を別の人物に任せていたため、その事を指摘され、更に、それまでと同様、許可なしに旅行に出かけたりする事を非難さるなど、その他諸々の理由により減法処分をくらってしまうのでした。
これに対抗すべくバッハも市に対して上申書を書き送るのでした。その主な内容は「市の予算不足により演奏に本来必要な人員を確保できず、それを補うために自分は奔走しているが、これを自分ひとりのせいにするのは不当だ。」というものでした。
バッハのこの対応はライプツィヒ市にとっては、当然受け入れ難いものであり、お互いへの理解は進まず、両者の対立が返って浮き彫りになるという結果になってしまうのでした。
ライプツィヒで多忙な生活を送るバッハでしたが、実務は多いものの権限が与えられず、あまり満足できない生活になっているようですが…このつづきはまた明日。
【その他の作曲家の生涯はこちら】
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さて、ちょっと間が空いてしまいましたが、バッハの続きです。
(第11話)【ライプツィヒでの対立】
ライプツィヒでカンタータの作曲を熱心に行うバッハでしたが、2・3年すると、どうにかこれも落ち着いてくるのでした。
ようやく落ち着いてくると、バッハもカントル(音楽監督)の仕事に本腰を入れようとします。それまで、礼拝で歌うコラールの選曲は本来カントルの仕事だったはずでしたが、バッハにはこの権限が与えられず選曲は教会の牧師に委ねられていたため、まずはこれを取り戻そうと画策します。
ところが、結局バッハのこの動きは認められず、それまで通りの権限に留まる事になります。
一方、1729年からはこれに代わってコレギウム・ムジクムの指導という新しい職務が課せられる事になります。
コレギウム・ムジクムとはライプツィヒにある学生を中心とした演奏団体の事ですが、これは1702年、テレマンによって設立されたようですが、その後バッハがライプツィヒに来た際には当地のオルガニストが指導を行っていました。しかし、そのオルガニストが1729年にライプツィヒから西の都市ゴータに赴任したため、その後任としてバッハがその任を引き継ぐ事になるのでした。
コレギウム・ムジクムの指導を行いながらこの楽団の定期演奏会で、自作の演奏を行っていたようです。演目としては、チェンバロ協奏曲や管弦楽組曲などが演奏されていたようです。
そんな中、1730年にライプツィヒ市からバッハに対するカントル(音楽監督)としての資質を問うような職務怠慢を指摘した議題が上ってしまいます。バッハはその多忙から、その職務のひとつである授業を別の人物に任せていたため、その事を指摘され、更に、それまでと同様、許可なしに旅行に出かけたりする事を非難さるなど、その他諸々の理由により減法処分をくらってしまうのでした。
これに対抗すべくバッハも市に対して上申書を書き送るのでした。その主な内容は「市の予算不足により演奏に本来必要な人員を確保できず、それを補うために自分は奔走しているが、これを自分ひとりのせいにするのは不当だ。」というものでした。
バッハのこの対応はライプツィヒ市にとっては、当然受け入れ難いものであり、お互いへの理解は進まず、両者の対立が返って浮き彫りになるという結果になってしまうのでした。
ライプツィヒで多忙な生活を送るバッハでしたが、実務は多いものの権限が与えられず、あまり満足できない生活になっているようですが…このつづきはまた明日。
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