初心者のクラシック

有名な曲からおすすめの曲まで、できるだけ初心者にも分かり易く紹介します。

ピアノ協奏曲 (ラヴェル作曲)

2008年02月29日 | その他の作曲家
たまには、クラシック音楽を聴いてみてはいかがですか?

今日はラヴェル:ピアノ協奏曲です。

この曲は、アメリカ旅行からフランスに戻ったラヴェルが自分で演奏するために作曲した曲です。アメリカで聴いたと思われるジャズの要素も入っていて、他の作曲家のピアノ協奏曲とはちょっと違った雰囲気を持っているピアノ協奏曲だと思います。

完成した協奏曲は、体調不良などもあって結局自分ではピアノを演奏する事が出来なかったようですが、元気よく快活でテクニカルな第1・3楽章と、しんみりと聴かせる第2楽章がなんとも多彩なラヴェルらしい一曲です。


 第1楽章:パチン!とムチの音が響くと、フルートとピアノが軽妙に始まります。
 淡々と響くふたつの音は次第に盛り上がると、少しはしゃいだようなトランペット
 がフレーズを引き継いでいきます。
 曲が落ち着くと、ピアノのゆったりとしたジャズのような響きに、フルートや
 ウッドブロックのリズムがスパイスを効かせていくようです。
 しばらくするとピアノの動きも速くなり、軽快なフレーズをなめらかに奏でます。
 テクニカルなフレーズを軽々とこなしていきます。素早いパッセージの間に
 管楽器が入ると、機敏な動きには圧倒されます。
 やがて冒頭のフレーズをピアノと管楽器が賑やかに響かせます。
 一度、静かになるとピアノがポツリ、ポツリと響き寂しげな雰囲気になりますが、
 静けさの中にフルートが一瞬響くと、すこし驚きます。
 また静かになると、ピアノの音色が穏やかに流れ、涼しげな表情をみせてくれます。
 やがてピアノのが低音を力強く響かせると、曲に勢いが戻り、管楽器を巻き込んで
 華やかに盛り上がって曲を締めくくります。

 第2楽章:中低音のおだやかなピアノがしんみりとしたフレーズで、ゆっくりと
 始まると、けだるい感じがなんとも心地よく響いてきます。
 寂しげでもあり、物憂げなピアノの響きがトリルに変わりフルートの響きが
 すうっと入ると、それまで目元にたまっていた涙がすうっと頬をつたって流れ
 落ちてくるかのような気持ちになってしまいます。
 ピアノとフルートのゆっくりとしたメロディは続き、突然の涙にとまどって
 しまいますが、弦楽器が入るとそれを大きく包み込んでくれるように響きます。
 ピアノの暗いメロディは弦楽器になだめられるように次第に明さを取り戻します。
 しかし、明い表情を取り戻したかのように聴こえたピアノも、安心したのか、
 返って大粒の涙をポロポロとこぼすように、キラキラと輝くような美しい
 ピアノの音色を聴かせてくれます。
 ピアノと同時に流れるイングリッシュホルンも、おだやかな表情でそっと
 見守るように、やさしいメロディを聴かせてくれます。
 最後はフルートの音色が、さわやかに響くと、まるで何事も無かったかのように
 どこまでも続くピアノのトリルで終わっていきます。 

 第3楽章:金管楽器が大きく響き渡ると、勢いのあるピアノが大急ぎではじまります。
 クラリネットやフルートが疾風のように入ると、曲が引き締まります。
 トランペットにスネヤドラムがピシャリと入ると、一度仕切り直したピアノは、
 また勢いよく走り出していきます。
 トライアングルがジリリー!と響き、ムチがまたピシャリ!と入り、おどけたような
 ホルンが入ると、ひと息入れますが、
 ピアノの勢いは止まらずにどんどん前に、前にとまっしぐらに進んでいきます。
 管楽器を巻き込みながら盛り上がりを見せると、ピアノはとどまる事を忘れた
 かのようにどんどんと進み、最後はバスドラムがドン!と締めて終わります。


「ラヴェルの生涯」を調べていて、「何かラヴェルの曲の記事も書かないとなぁ、」なんて思って、ラヴェルの作品をいろいろ聴きながら、どれにしようかと思ってました。
それで、CDは持っていたんですけど、そんなに聴いていなかったこの「ピアノ協奏曲」をプレイヤーに入れて流していました。
これまでにも、何回か聴いた事があったこの曲でしたけど、第1楽章がやたら賑やかで、めまぐるしい程に動く曲だったので、どちらかと言うと最初に聴いて以来あんまり聴かない曲になっていましたが、今回、何気なく流していたCDを聴いて、ハッ!としたのが第2楽章でした。
こんなに温かくて美しいメロディがあったなんて・・・!
それから、もう一度最初から聴き直してみると、第1・3楽章も、細かいところがあるにも関わらず、それを豪快に弾きこなしていくところが、なんとも圧巻の一曲でした。

演奏時間は20分少々と、協奏曲としてもそれほど長くはありませんが、いろんな意味でボリュームは満点の曲だと思います。

それにしても、こんなにいい曲があったのに聴き逃して(素通り)いたなんて…、ちょっとショックな今日この頃です。

≪オススメCD≫
アルゲリッチのピアノでどうぞ
ラヴェル:ピアノ協奏曲
アルゲリッチ(マルタ)
ユニバーサル ミュージック クラシック

このアイテムの詳細を見る



【コレってどんな曲】
喜:☆☆☆☆★
怒:☆☆★★★
哀:☆☆☆☆★
楽:☆☆☆★★

≪おすすめシチュエーション≫
いろんな要素が満載のピアノ協奏曲です


音楽ブログランキング
 

ニューヨークフィルでオーケストラ外交!?

2008年02月28日 | その他
たまには、クラシック音楽を聴いてみてはいかがですか?

今日はニューヨークフィルでオーケストラ外交!?です。

まずはニュース記事から

【ニューヨークフィルが平壌で初の公演】
北朝鮮の招待で訪朝した米国のニューヨーク・フィルハーモニックは26日、平壌の東平壌大劇場で公演を行った。金正日総書記は現れなかったが史上初の米朝文化交流は世界15カ国に生中継され、公演では北朝鮮国歌「愛国家」、次いで米国国歌「星条旗」が演奏された。米国の求める核計画申告を拒否、6カ国協議が膠着(こうちゃく)している中、北朝鮮主導の「歴史的公演」の狙いは、国際社会に向け雪解けムードを演出することにあるようだ。

演壇の左右には北朝鮮国旗と星条旗が立てられた。北朝鮮側の観客はすべて招待客で音楽・文化関係者で、国歌演奏では楽団員だけでなく約1500人の観衆が全員起立した。名匠ロリン・マゼール音楽監督の指揮で、ドボルザークの「新世界より」やガーシュインの「パリのアメリカ人」などに加え、アンコールで朝鮮民謡の「アリラン」も演奏された。

2008.2.26「産経ニュース」より
――――――――――――――――――――――――――――

いや~スゴイですね。まぁ確かに北朝鮮に欧米のオーケストラが、しかもアメリカのオーケストラが訪問する事自体がスゴイですけど、上の記事はテレビのニュースでも見ましたが、各局で放送されてましたね。

ニュースで見たときには、アメリカ国歌が流れていた映像だったので、結構ビックリしました。選曲も「新世界から」とか「パリのアメリカ人」とかアメリカを意識した選曲なのかな?なんて思ったりもしましたが、アンコールで「アリラン」を演奏するなんて、粋というか気が効いているというか・・・。

客席にいる北朝鮮の国民が演奏を真剣なまなざしで見つめている映像がとても印象的でした。でも、よくよく考えると名門オーケストラが各国を演奏旅行するのはよくある話で、音楽の好きな人がそれを聴きにいくのはとてもあたりまえの事なんですよね。
だから、仮にニューヨークフィルが来日したとしても、こんなに大きなニュースにはならないんだと思います。(ちなみにニューヨークフィルの初来日は1961年にバーンスタインの指揮みたいです。)

各国間でそれぞれの事情はあると思いますが、こんな風に自然に文化交流ができるといいんですけど、なかなか現実には難しいんでしょうねぇ。


オーケストラが、テレビで、しかもニュースとして放送されていたので、ブログにもちょっと紹介してみました。「音楽は万国共通」なんて、どこかのキャスターも言ってたと思いますけど、ホントそうですよね。感動する音楽は誰の耳にも同じように響くハズですし、どこの国の人でも同じように泣いたり笑ったりする訳ですから、「人類みな兄弟」みたいな世界になれば、余計な心配も無くなるんでしょうね。


音楽ブログランキング
 

モーリス・ラヴェル(最終話)

2008年02月27日 | 作曲家の生涯
たまには、作曲家の生涯にふれてみてはいかがですか?

今日はジョセフ・モーリス・ラヴェル(最終話)です。

≪作曲家ゆかりの曲≫
ラヴェル:ピアノ協奏曲
アルゲリッチ(マルタ)
ユニバーサル ミュージック クラシック

このアイテムの詳細を見る
【Joseph-Maurice Ravel】

アメリカの演奏旅行を終えて、ボレロを作曲し勢いに乗るラヴェル。次はピアノ協奏曲に取りかかるラヴェルですが、今日はその続きからです。

(第8話)【2つのピアノ協奏曲】
2つのピアノ協奏曲を作曲する事になったラヴェル。ひとつは自分が演奏するために作品ですが、もうひとつは戦争で右手を失ったピアニストのための作品です。

そして、ふたつのうち先に完成したのは「左手のためのピアノ協奏曲」でした。1931年にウィーンで初演が行われる事になりますが、依頼主であるヴィトゲンシュタインがこのピアノを演奏します。

ところが、ラヴェルの作品があまりにも技巧的すぎたのか?あるいは単純に曲が好みに合わなかったのか?
ヴィトゲンシュタインは、作曲者のラヴェルに何の断りもなく勝手に譜面を書き換えて、初演をサラッと弾きこなしてしまうのでした。

そのため、これを聞いたラヴェルはその後、ヴィトゲンシュタインとの仲が疎遠になってしまいます。

一方、もうひとつの「ピアノ協奏曲」がその後、完成するとラヴェルはこれを念願どおりに自分でピアノを演奏しようとしますが、この頃から体調が優れなかったラヴェルは、医者の勧めもあって、ピアノ演奏はあきらめて指揮のみで参加し、ピアノは組曲「クープランの墓」のときと同じピアニストのマルグリット・ロンが演奏する事になります。

こうして1932年パリで「ピアノ協奏曲」が初演されると、この曲は好評を受け、その後はこの曲とともにまた演奏旅行を続けていたようですが、

そんな1932年秋ごろ、突然の事故がラヴェルを襲います。
パリでタクシーに乗っていたラヴェルは交通事故に遭います。この事故のために脳に損傷を受けたラヴェルは、周りとの意思疎通が非常に困難になってしまいます。

楽譜はもちろん文字も事故前ほどは、思うように書けず、何よりも辛かったのは新しい曲が頭に浮かんでもそれを楽譜に書き起こすことができなくなってしまうのでした。

それでも、どうにか意欲的に音楽活動を続けようと各地を奔走します。しかし、病状は徐々に悪化する一方だったため、1937年、周囲の計らいもあって手術に踏み切りますが、これが失敗し数日後に世を去ってしまうのでした。享年62歳の生涯でした。


現在ではフランスを代表する大作曲家ラヴェルですが、交通事故が原因で寿命が短くなってしまうなんて、しかも、それがために作曲が困難になってしまうとは・・・、歴史に「もしも」はありませんが、もし、事故に遭わなければ、経験を積んだ晩年のラヴェルなら現在にも残る名曲をもっと生み出していたハズなんでしょうが、一番無念だったのはラヴェル本人なのかもしれません。

【その他の作曲家の生涯はこちら】

音楽ブログランキング
 

モーリス・ラヴェル(第7話)

2008年02月26日 | 作曲家の生涯
たまには、作曲家の生涯にふれてみてはいかがですか?

今日はジョセフ・モーリス・ラヴェル(第7話)です。

≪作曲家ゆかりの曲≫
ボレロ~ラヴェル:管弦楽曲集
デュトワ(シャルル),モントリオール交響合唱団
ユニバーサル ミュージック クラシック

このアイテムの詳細を見る
【Joseph-Maurice Ravel】

第一次大戦を経て「ク-プランの墓」を作曲し、その後も作曲を続けながらヨーロッパ各地を演奏旅行するラヴェル。今日はその続きからです。

(第7話)【アメリカ演奏旅行】
演奏旅行でヨーロッパ各地を転々とするラヴェルでしたが、1928年には、いよいよアメリカ大陸へ渡ることになります。

フランス、パリでは賛否両論の飛び交うラヴェルの作品でしたが、アメリカではニューヨーク、ボストンをはじめ高い評価を受け、聴衆からも大絶賛を受けるとともに多大な報酬を手にする事ができたのでした。

そしてアメリカでは既に「ラプソディ・イン・ブルー」で成功していたガーシュウィンに会うと、「フランスの作曲家に学びたかった」と、言われたラヴェルは「あなたはもう一流のガーシュウィンじゃないですか。二流のラヴェルになるおつもりですか」と言ったという逸話も残されているようです。

こうして4ヶ月に渡るアメリカ演奏旅行を終えて、フランスに帰国したラヴェルは、バレエ音楽の作曲を依頼されます。そして完成したのが、「ボレロ」だったのです。

今でこそ、ラヴェルの代名詞とも言えるこの曲は、クラシックでも人気があって、一般的にも有名なメロディのこの曲ですが・・・、とにかく同じメロディがひたすら繰り返されるこの曲。
1928年にパリのオペラ座で初演されると、演奏を聴いた一人の女性が「作曲者は狂っている!」と叫ぶと、その事を聞いたラヴェルは「その女性こそこの曲の真の理解者だ」と言ったという。なんともシャレたエピソードもあるようです。

翌1929年にはアメリカでの成功を受けて自らが演奏するための「ピアノ協奏曲」の作曲に取り掛かります。

ピアノ協奏曲の作曲中、別の作品の作曲依頼が入ります。第一次大戦によって右手を失ったピアニストのパウル・ヴィトゲンシュタインからの依頼で、それは左手だけで弾けるピアノ協奏曲を作曲する事でした。


アメリカでは大喝采を受けるラヴェル。パリでは「ボレロ」がまたしても賛否両論?!のような展開を見せるラヴェルでしたが、次はピアノ協奏曲に挑みます。このつづきはまた明日。

【その他の作曲家の生涯はこちら】

音楽ブログランキング
 

モーリス・ラヴェル(第6話)

2008年02月25日 | 作曲家の生涯
たまには、作曲家の生涯にふれてみてはいかがですか?

今日はジョセフ・モーリス・ラヴェル(第6話)です。

≪作曲家ゆかりの曲≫
ラヴェル:ピアノ曲全集
ロジェ(パスカル)
ユニバーサル ミュージック クラシック

このアイテムの詳細を見る
【Joseph-Maurice Ravel】

第一次大戦がはじまると志願兵として従軍するラヴェル。体調を崩して帰ると、今度は母親の不幸。今日はその続きからです。



(第6話)【「クープランの墓」にこめた思い】
戦地からの帰郷、そして母親の死を目の前にして、打ちひしがれていたラヴェルでしたが、どうにか作曲だけはつづけていくのでした。

戦争がはじまった頃から、手をつけていた組曲「クープランの墓」を仕上げていきます。愛国心が強かったと言われるラヴェルは、そのあまり第一次大戦にも志願兵として名乗りを上げるほどでしたが、その情熱は音楽に対しても同じくらいの思いがあったようです。

組曲「クープランの墓」のタイトルにある“クープラン”はフランスのバロック音楽の大家として有名な作曲家で、ラヴェルも大変尊敬していたようです。そんなクープランをはじめとするフランス音楽のために捧げる音楽をつくろうと、1914年頃からこの作品に取り掛かります。

そして、作曲の途中に大戦を迎え、自らも戦地へと赴く中でラヴェルの友人たちも、多くが亡くなってしまうのでした。そして母親の死。ラヴェルは作曲を続ける中で、フランス音楽と同時に亡くなった友人たちにも“捧げる”という思いを込めて作曲した。とも言われるように、さまざまな思いを込めてこの曲を完成させていくのでいた。

1919年、初演は大戦で未亡人になっていたマルグリット・ロンのピアノで演奏されるのでした。これを受けて、1920年ラヴェルはレジオンドヌール勲章を授与しますが、これを辞退してしまうのでした。

フランスでも名誉あるこの勲章をラヴェルが辞退したことに、周囲の人間は物議を醸します。ラヴェルとしては、他人の死に便乗して自分だけが栄誉を受けることを嫌っていたのかもしれませんが、
過去の“ローマ大賞”落選から、こういった“賞”や“評価基準”的なもの自体に一種の嫌悪感を抱いていたために、この受勲を事態したのではないかとも言われています。

1923年、体調がやや回復の兆しを見せると、ヨーロッパ各地を周る演奏旅行へと出かけます。イタリア、ベルギー、オランダ、スペイン、イギリス等々、各地を回りながら、「子供と魔法」、「マダガスカル島民の歌」「ヴァイオリン・ソナタ」を作曲、初演してくのでした。


フランス音楽や戦争で失った友人のために作曲された「クープランの墓」。勲章は辞退しましたが、自らの作品とともに演奏旅行の日々を続けるのでした。このづづきはまた明日。

【その他の作曲家の生涯はこちら】

音楽ブログランキング
 

CMのクラシック(その16)

2008年02月23日 | CMのクラシック
たまには、クラシック音楽を聴いてみてはいかがですか?

今日はCMのクラシック(その16)です。

さてテレビでは連日たくさんのコマーシャルが流れていますが、そんなTVCMの中にもクラシック音楽は結構使われています。それをクラシック音楽と意識しなくても知らず知らずのうちに聴いてしまう愉快なメロディを思わず口ずさんでいる事もあるんじゃないでしょうか?

前回はあんまりCMチェックしてなかったので…と書いてましたが、ちょっと注意して見てみると、相変わらず結構たくさんやってますねぇクラシックCM。
という訳でとりあえず、いくつか紹介しますが、まだまだあるので、近いうちにまた

パラッツォ(パチンコ)
【曲目:「新世界から」:ドヴォルザーク】
ら~らら~らーららー♪“新世界から”のメロディを鼻歌で口ずさむ女性。そして「パラッツォは遊びの世界を新世界に!」とナレーションが入ります。そこにつながるんですね!「新世界」

アメリカンホームダイレクト:これからだ
【曲目:弦楽四重奏曲第17番セレナード:ハイドン】
地井武男さんがCMをやってますが、教室みたいなアニメーションをバックに保険の紹介をしています。その中を淡々と曲が流れるCMです。
このCMはブログでは紹介してませんでしたけど、ちょっと前からやっていたかも?今はあんまり見ないかな?

リーブ21:「実感はいつ?編」
【曲目:旧友:タイケ】
「発毛を実感したのはいつ?」という字幕がでると男性・女性・お年寄りの人々が次々にその体験を語ります。曲は口笛風に流れます。そして最後に社長?が現われて「あなたも発毛を実感してみませんか?」と一言。

サントリー:新ダイエット生
【曲目:ツァラトゥストラはかく語りき:R.シュトラウス】
黄色い月のようなものに、「カロリー気になる2008年、ラッキーナンバー77、77キロでこんなに旨い!」と字幕とともにナレーションが流れると、中心に吸い込まれていき、缶ビールとグラスに注がれたビールが現れます。
テレビではあんまり見かけないですけど、サントリーのホームページではちゃんと見れました。

※曲目のリンクはこのブログで書いた記事のページにつながります。


新しいCMもたくさんありますけど、前に紹介してたスズキの軽自動車のCM(西本智実さん出演)とか、任天堂DSの文学全集なんかは今でもたまに見かけますし、NTTNTTプラチナラインのCMなんかはロングランでコンスタントにやってたりしますよね。

【前回のCMのクラシック】


音楽ブログランキング
 

モーリス・ラヴェル(第5話)

2008年02月22日 | 作曲家の生涯
たまには、作曲家の生涯にふれてみてはいかがですか?

今日はジョセフ・モーリス・ラヴェル(第5話)です。

≪作曲家ゆかりの曲≫
ラヴェル:バレエ音楽〈ダフニスとクロエ〉
ブーレーズ(ピエール),ベルリン放送合唱団
ユニバーサル ミュージック クラシック

このアイテムの詳細を見る
【Joseph-Maurice Ravel】

スペイン狂詩曲が注目される中、父親の不幸に落ち込むラヴェルでしたが・・・、今日はその続きからです。

(第5話)【第一次世界大戦】
父親の死をどうにか乗り越えながら、ラヴェルは音楽に取り組みます。その甲斐もあってか、やや波乱含みではあるものの、その作品は話題を呼び作曲家ラヴェルの名声も次第に大きくなっていくのでした。

そんなラヴェルの名声を聞きつけたのか、1909年にロシア・バレエ団のディアギレフから、「ダフニスとクロエ」の作曲を依頼されるのでした。

このディアギレフ率いるロシアバレエ団は、パリで既に成功を収めていたため、次の公演のために新作を求めて、新人の作曲家にその音楽を依頼します。そのひとりがラヴェルだったのでした。

そして遂に完成した「ダフニスとクロエ」が1912年に初演されると、大成功を収めるのでした。この成功をきっかけに作曲家ラヴェルも一躍有名になっていきます。

作曲家としても、ようやく名前の売れてきたこの頃、1914年第一次世界大戦が勃発します。
ラヴェルはこの時、既に39歳になっていましたが、「祖国のために!」とフランス軍に志願するのでした。

小柄だったラヴェルは、最初に空軍に志願したようですが、徴兵検査にひっかかってしまい、入隊を拒否されてしまいます。しかし、どうしても諦めきれなかったラヴェルは、どうにかして志願し、輸送部隊に配属となり1916年からいよいよ戦地に赴く事になります。

ところが、いざ戦場に着いたものの、ラヴェルにとって戦地は想像以上に過酷なものだったのか?早くも赤痢を患ってしまい、戦場から引き返し病院に入る事になってしまいます。

結局、散々な思いをして戦地から引き返してきますが、悪い事は重なるもので、1917年母親が亡くなってしまうのでした。
体調を崩し戦地から帰ってくると、まるで追い打ちをかけるように不幸がラヴェルを待ち受けていたのです。

「なんでオレだけがこんなヒドイ目に遭うんだろう!」度重なる不運にラヴェルもきっと打ちひしがれていた事でしょう。


「ダフニスとクロエ」でようやく名前が売れてきたラヴェルでしたが、大戦の中、愛国心のあまり従軍するも、体調不良で引き返し、そこへ母の死が突き付けられてしまうラヴェル…。このつづきはまた来週。

このブログの組曲「ダフニスとクロエ」第2組曲の記事はこちら

【その他の作曲家の生涯はこちら】

音楽ブログランキング
 

モーリス・ラヴェル(第4話)

2008年02月21日 | 作曲家の生涯
たまには、作曲家の生涯にふれてみてはいかがですか?

今日はジョセフ・モーリス・ラヴェル(第4話)です。

≪作曲家ゆかりの曲≫
ラヴェル:管弦楽曲集(第1集) ボレロ/スペイン狂詩曲/ラ・ヴァルス
パリ音楽院管弦楽団
EMIミュージック・ジャパン

このアイテムの詳細を見る
【Joseph-Maurice Ravel】

度重なる“ローマ大賞”への挑戦も虚しく不本意な結果に終わってしまうラヴェルでしたが、今日はその続きからです。

(第4話)【批判とスペイン狂詩曲】
ローマ大賞こそは逃してしまったものの、作曲家としての道を歩むべく作曲を本格的にはじめたラヴェルは1906年に歌曲集「博物誌」を作曲し初演します。

ところが、この曲に対して(スペイン交響曲で有名なラロの息子)ピエール・ラロから「これはドビュッシーの盗作だ!」として非難を受ける事になってしまいます。

これにめげず?同時期に作曲した「スペイン狂詩曲」が1908年に初演されると、まずまずの成功を収め、スペインの作曲家ファリャからも絶賛を受ける事が出来たのでした。

この「スペイン協奏曲」は4部構成で出来たオーケストラ作品でしたが、3曲目の「ハバネラ」だけは既に1895年にピアノ曲として完成していたものでした。この曲と他3曲を合わせて「スペイン狂詩曲」として初演されたのですが、3曲目の「ハバネラ」が加えられたのは、その後1903年にドビュッシーの作曲したピアノ曲「版画」の第2曲「グラナダの夕べ」を聴いたラヴェルが「自分のハバネラに似てない?!」なんて事を言ったとか言わなかったとか・・・。

そんないきさつがあったため、ピエール・ラロからの批判にあてつけるために、ラヴェルは、わざわざ既に作曲していた「ハバネラ」を新作の「スペイン狂詩曲」に取り入れる事によって、批判を逆手に取ろうとしたのではないか?という説までささやかれるようになるのでした。

ともあれ、「スペイン狂詩曲」はその後も大きな支持を集め、現在ではラヴェルの作品を代表する一曲になっている事だけは間違いないようです。

スペイン狂詩曲が話題になっていた頃、1908年父のジョセフが亡くなるのでした。数年前から体調を崩し、闘病生活を送っていた父でしたが・・・、思えば父親のピアノを聴いて育ったラヴェルが、その道を選んだ事にも大きく影響を与え、息子ラヴェルのよき理解者でもあった父ジョセフの死は、少なからずラヴェルにショックを与え、その後しばらくはラヴェルも失意の日々を送るのでした。



せっかくの作品を“盗作”呼ばわりされてしまうラヴェルでしたが、スペイン狂詩曲を初演すると、その汚名もいくらかは返上することができたようです。しかしながら、父親の死に触れることになってしまったラヴェル。このつづきはまた明日。

このブログの「スペイン狂詩曲」のきじはこちら

【その他の作曲家の生涯はこちら】

音楽ブログランキング
 

モーリス・ラヴェル(第3話)

2008年02月20日 | 作曲家の生涯
たまには、作曲家の生涯にふれてみてはいかがですか?

今日はジョセフ・モーリス・ラヴェル(第3話)です。

≪作曲家のゆかりの曲≫
ラヴェル:作品集
オムニバス(クラシック),ニュー・イングランド音楽院合唱団
ユニバーサル ミュージック クラシック

このアイテムの詳細を見る
【Joseph-Maurice Ravel】

パリ音楽院では様々な作曲家との出会いにより、それぞれの音楽に興味を示し、影響を与えあうラヴェル。今日はその続きからです。

(第3話)【ローマ大賞】
パリ音楽院で多くの音楽家に出会いながら、その多くの作品に触れる事になったラヴェルは、フォーレの薦めもあって、ローマ大賞に挑戦する事になります。

この“ローマ大賞”は音楽をはじめ建築・絵画・彫刻などの芸術を振興するためにフランスで行われたコンクールみたいなものですが、音楽部門(作曲)では、かつてベルリオーズが大賞を受賞し、サン=サーンスは2度の挑戦も虚しく大賞を逃し、ラヴェルの敬愛するドビュッシーも1884年に大賞を受賞していたのでした。

1901年、カンタータ「ミルラ」でローマ大賞に挑んだラヴェルでしたが、この年は惜しくも2位にとどまります。翌1902年と、更に翌年の1903年にも続けて応募しますが、念願のローマ大賞を受賞する事はできませんでした。

1904年は冷却期間として応募を見送り、1905年、心機一転改めてローマ大賞に応募しますが、この時既に30歳を迎えていたラヴェルは「年齢制限」を理由に、応募自体を無効とされてしまうのでした。

ところが、この「年齢制限」による理不尽な無効を、快く思わなかったのはラヴェルだけではなく、恩師フォーレも抗議をし、作家ロマン・ロランもその抗議に加わると、この「ローマ大賞」を管轄する大臣にまで抗議文を送るなどの一大スキャンダルに発展してしまうのでした。

結局、この審査に加わっていたパリ音楽院の院長テオドール・デュポワ他、数名の教授が辞職する事で事態は幕引きとなりましたが、ラヴェルのローマ大賞に対する決定は変わらず、評価の対象にならないままの形になってしまうのでした。

この事が後に、「ラヴェル事件」と呼ばれるようになり、「ローマ大賞」自体のあり方にも疑問を投げかけるような事件として語られるようになるのでした。


ローマ大賞を狙って何度も挑戦するラヴェルでしたが、最後はなんとも後味の悪い結果になってしまいましたが、このつづきはまた明日。


【その他の作曲家の生涯はこちら】

音楽ブログランキング
 

モーリス・ラヴェル(第2話)

2008年02月19日 | 作曲家の生涯
たまには、作曲家の生涯にふれてみてはいかがですか?

今日はジョセフ・モーリス・ラヴェル(第2話)です。

≪作曲家の肖像≫
500円クラシック(10)ラヴェル&ドビュッシー
オムニバス(クラシック)
エイベックス・クラシックス

このアイテムの詳細を見る
一応右がラヴェルです
【Joseph-Maurice Ravel】

パリ音楽院に若くして学んだものの、あまり熱心には勉強していなかったラヴェルのようですが・・・、今日はその続きからです。

(第2話)【パリ音楽院】
パリ音楽院では、あまり真面目な生徒では無かったようですが、そんなラヴェルは学生時代にも様々なエピソードを残しています。

狂詩曲「スペイン」を作曲した(1883年)作曲家シャブリエにも興味を示し、ラヴェルもこれに強く影響を受けるようになっていきます。

また、1893年には父ジョセフの紹介でエリック・サティとも知り合います。当時のパリではサティの音楽は、その斬新な作風のあまり、異端児扱いされていたようですが、ラヴェルにとってはこの斬新な音楽が新鮮に聴こえたのでしょうか?サティの音楽にも強く関心を示していくのでした。

1897年22歳のときに、パリ音楽院でも多くの出会いと音楽を吸収していたラヴェルの元に、チュニジアで音楽を教える仕事の話が持ち上がります。しかし、常に新しい音楽が生まれるパリには刺激的な音楽を共に味わう友人も多くおり、協力者であり、よき理解者でもある家族の元を離れる事を気にかけたラヴェルはこの話を断り、パリに踏み留まるのでした。

その後もパリ音楽院で学び続けるラヴェルでしたが、1898年にガブリエル・フォーレが作曲の教授に就任すると、彼の講義にも強く関心を示し、フォーレの下で作曲を学んでいくのでした。

フォーレの講義を受けながら、音楽院では大きな出会いがあるのでした。それはドビュッシーとの出会いでした。フォーレと共にパリの音楽家が集まるサロンでドビュッシーと知り合う事になったようですが、ラヴェルは彼の音楽にも強く興味を持ち、その後も敬愛の念を持って接するようになっていきます。

そんな中、既にいくつかの作品を作曲していたラヴェルですが、この頃1899年24歳になると、ルーヴル美術館にある画家ベラスケスの描いた王女の肖像画を見て、これに触発されると、まずはピアノ曲として、現在でも彼の代表作と言われる「亡き王女のためのパバーヌ」を作曲しています。

こうして、新しい音楽に次々と接していくラヴェルは、この事が後の作風にも大きく影響を受ける事にるのでした。


パリ音楽院に入った当初はそれほど真面目に取り組んではいなかったようですが、ドビュッシーをはじめ、フォーレ、サティなど名だたる作曲家との出会いにより新しい音楽に出会っていくのでした。このつづきはまた明日。

【その他の作曲家の生涯はこちら】

音楽ブログランキング