l益田市の戸田は、歌聖・柿本人麿の生誕の地と伝えられる。益田を初め、島根県の石見(いわみ)地方には、人麿に関する伝承や史跡が多く残り、この地と人麿との深い由縁を思わせる。
人麿は、今からおよそ千三百年前、天武、持統、文武天皇の時代に活躍した宮廷歌人であり、万葉歌人のうちの第一人者とされる。
和歌の神様にあやかって、学業の成就と歌の上達(笑)をお祈りした。
ちなみに私は、新古今集の人麿歌の中では、
ささの葉はみ山もそよに乱るなり我は妹(いも)思ふ別れ来ぬれば
が好きである。これは、人麿が石見国の国司として赴任した際、現地の女性と知り合い、愛し合うようになったが、やがて任果てて京に帰ったときの歌である。(万葉集では、石見相聞歌として知られる長歌二首、反歌二首のうちの一首。)
万葉集には、「妻と別れて京に上り来る歌」というのもあり、
石見の海打歌(うつた)の山の木の際(ま)より我が振る袖を妹見つらむか
と詠んでいるが、この「打歌の山」は、この神社に近い中垣町の大道山を想定する説があるそうだ。
そういえば、大学生の頃、万葉が専門の先生に、人麿や石見相聞歌について教わったっけ、と懐かしく思い出す。
人麿は、今からおよそ千三百年前、天武、持統、文武天皇の時代に活躍した宮廷歌人であり、万葉歌人のうちの第一人者とされる。
和歌の神様にあやかって、学業の成就と歌の上達(笑)をお祈りした。
ちなみに私は、新古今集の人麿歌の中では、
ささの葉はみ山もそよに乱るなり我は妹(いも)思ふ別れ来ぬれば
が好きである。これは、人麿が石見国の国司として赴任した際、現地の女性と知り合い、愛し合うようになったが、やがて任果てて京に帰ったときの歌である。(万葉集では、石見相聞歌として知られる長歌二首、反歌二首のうちの一首。)
万葉集には、「妻と別れて京に上り来る歌」というのもあり、
石見の海打歌(うつた)の山の木の際(ま)より我が振る袖を妹見つらむか
と詠んでいるが、この「打歌の山」は、この神社に近い中垣町の大道山を想定する説があるそうだ。
そういえば、大学生の頃、万葉が専門の先生に、人麿や石見相聞歌について教わったっけ、と懐かしく思い出す。