ふと思い立って、上信電鉄の上州富岡駅で降り、徒歩15分、富岡製糸場に着いた。
明治5年、世界最大規模の器械製糸工場として創業、絹産業だけでなく、日本の工業化、近代化に大きく貢献したことは知識としては知っていたが、施設や機械を実際に見ることによって、当時に思いを馳せ、日本の近代化の歩みを実感することができた。
昭和62年に操業を停止した後は、国の重要文化財に指定され、現在は世界遺産の登録に向けての機運も盛り上がっているという。
富岡製糸場には、私の母方の祖母が、若いときに勤めていたそうだ。よくいわれる「女工哀史」のようなことは、祖母の場合はなかったらしく、一等女工ではなかったけれど、職業婦人として働き、実家に現金で仕送りできることに誇りを持っていたと聞いた。
話を聞いていておかしかったのは、祖母は非常に小柄だったので、工場に役人の立ち入り検査が入るときは、子供を働かせていると誤解され指導を受けないように、別室で待機させられていたそうだ。「あのときは、自分だけ働かなくていいから楽でよかった」と、祖母は笑っていた。
日本の現在の繁栄には、国の政策だけでなく、有名無名の数知れぬ人々の尽力があったことを、今回の史跡見学で改めて思った。
明治5年、世界最大規模の器械製糸工場として創業、絹産業だけでなく、日本の工業化、近代化に大きく貢献したことは知識としては知っていたが、施設や機械を実際に見ることによって、当時に思いを馳せ、日本の近代化の歩みを実感することができた。
昭和62年に操業を停止した後は、国の重要文化財に指定され、現在は世界遺産の登録に向けての機運も盛り上がっているという。
富岡製糸場には、私の母方の祖母が、若いときに勤めていたそうだ。よくいわれる「女工哀史」のようなことは、祖母の場合はなかったらしく、一等女工ではなかったけれど、職業婦人として働き、実家に現金で仕送りできることに誇りを持っていたと聞いた。
話を聞いていておかしかったのは、祖母は非常に小柄だったので、工場に役人の立ち入り検査が入るときは、子供を働かせていると誤解され指導を受けないように、別室で待機させられていたそうだ。「あのときは、自分だけ働かなくていいから楽でよかった」と、祖母は笑っていた。
日本の現在の繁栄には、国の政策だけでなく、有名無名の数知れぬ人々の尽力があったことを、今回の史跡見学で改めて思った。