夢かよふ

古典文学大好きな国語教師が、日々の悪戦苦闘ぶりと雑感を紹介しています。

永遠の0(ゼロ) その2

2014-01-30 23:41:47 | 映画
内容紹介の続き
井崎が語る、決して臆病者ではなかったという宮部久蔵の姿は…。


昭和16年12月8日、真珠湾攻撃の後、戦勝にも宮部は浮かぬ顔で、米海軍の空母が一隻もいなかったことを気に掛けていた。
「敵空母を叩けなければ、この戦いは意味がなかったと思います。また、未帰艦機が29機も出ました。」
翌年6月、敵空母を叩けなかったツケが、ミッドウェー海戦で、恐ろしいかたちで払わされることになる。
宮部はその年、いったん内地に戻った後、今度はラバウルへ派遣され、小隊長となる。
その頃、井崎に宮部が語ったのは、
「私にとって、生きて帰るということは何よりも大切なことなんです。私一人が死んでも、戦局にたいした影響はありません。しかし、私が死ねば、妻と娘の一生は大きく変わってしまう。」


宮部は、内地に帰った際、横浜のわが家に帰り、娘の清子に初めて会っていた。
そして翌朝、別れる際、妻の松乃(=井上真央)に、
「たとえ手がなくなっても、戻って来ます。たとえ脚がなくなっても。たとえ死んでも、生まれ変わって、あなたと清子のもとに帰って来ます。」
と約束していた。
井崎は当時を振り返り、
「あの時代、あのような生き方を貫けた小隊長は、強い人でした。」
と語る。


しかしその後、ガダルカナル攻撃やマリアナ沖海戦など、生き残ることさえ難しい、困難な戦いが続く。宮部は、フィリピンでは特攻を拒否したが、昭和20年、海軍航空隊の予備教官となり、学徒出陣の若者たちを特攻兵として死地に送り出さなければならない立場になって、次第に精神的に追い詰められていく…。

感想
家族のために必ず生きて戻る、そう決意していた宮部がなぜ特攻を志願し、帰らぬ人になったのか。
宮部がその頃、自分と同様に特攻の直掩機に搭乗するようになった景浦に語ったのは、
「あれが特攻です。今日逝ったのも、私の教え子たちです。彼らがあの状況で、何ができると思いますか。敵の戦闘機の性能は、ゼロ戦を上回っている。私は彼らを死なせることで生き延びているんだ。私はどうすればいい!?」


宮部は特攻出撃の朝、教え子の大石に、自分が搭乗する五二型零戦を、君の二一型と交換してくれと言う。
出撃して間もなく、大石の乗った機はエンジントラブルを起こし、不時着。宮部はそのまま亡くなったが、大石は命拾いをする。…実は、宮部は搭乗前に機体に不具合があるのに気づいていたのだった。不時着の後で、大石は操縦席に、宮部が妻子の写真に添えて、「内地に帰って、彼らがもし路頭に迷っているようなら、あなたが助けてやってほしい。」
と書いていたのを見つける。


実はこの、宮部に搭乗機を譲られた大石こそ、冒頭に出てきた佐伯健太郎の祖父・大石賢一郎なのだが、詳しくは映画か原作小説かで確かめていただきたい。
この映画に関して、「戦争の賛美」とか「特攻を美談にしている」といった批判もあると聞く。
だが少なくとも私には、そのようには思えなかった。
先の大戦で命を落とした大勢の方々の犠牲に支えられて、現在の私たちの生はある。


映画の最後に、現在は老人となった大石賢一郎が清子に、
「あの人は、自分の死を恐れていたのではない。松乃やおまえの人生が壊れることを恐れていたのだ。生き残った者がなすべきことは、亡くなった人の死をむだにしないことだ。」
ということを語っていたのが印象に残った。
特攻の悲惨さや、当時の軍隊の、戦略不在なまま戦闘を継続することだけが自己目的化した組織としての欠陥も、宮部の生き方を描くことを通してリアルに伝わってきた。決して特攻や戦争を肯定するような映画ではなかったと思う。

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