フランツ・リストの作品

2014-05-26 12:46:21 | Weblog
最近、フランツ・リストの「巡礼の年」を通して聴いている。中には有名な曲もあるのだが、通して聴くと、その芸術の多様性に驚く。リストというと、とかくその超絶技巧の面だけが強調されるが、それは彼の一面にすぎない。とてもやわらかく、詩的で、ノスタルジアを感じさせる曲や後光がさしてくるような敬虔な雰囲気の曲もある。とはいえ、リストの超絶技巧を軽々と弾きこなせることは、ピアニストの憧れでもある。超絶技巧練習曲、パガニーニ大練習曲、ロ短調ソナタ、「ドンジョバンニの回想」などを弾きこなせるのは、限られたピアニストだけである。自分には一生縁がないだろう。リストというと、思い出すのは大学の後輩F君のことである。水戸出身のF君。在学中から、リストの音楽に狂っていた。珍しい録音を多数持っており、テープにダビングしてもらったりもした。髪形までリスト風であった。一緒に出かけたホロビッツのコンサートでも、超絶技巧がみられるたびに、ふぁーとか、ひゃーとか感嘆の声をあげていたのを思い出す。仲間からの愛称は、テクちゃん。なぜかというと、彼の口癖が、「先輩、あのピアニストのテク(技巧)どうですかね?」だからだ。今や日本のリスト研究・第一人者として活躍しているようだ。

クラス懇親会

2014-05-25 18:49:30 | Weblog
小学校のクラス懇親会に出席した。昼間は親子レクリエーションがあり、母子が出席。夜の部は、自分が出た。お母さんたちばかりとは聞いていたが、本当にその通り。父親は、自分だけだった。かなり浮いた感じだったが、折角参加したので、先生と話そうと思って、近くに座った。聞いてみると、回りはちゃゆみんからよく話を聞く子のお母さんたちだった。意外にも会話ははずみ、2時間半はあっという間に過ぎた。話題の中心は、ゲームと携帯電話について。つまり、小学生に持たせてもよいか?という件であった。先生は、あまり望ましくないとおっしゃったが、自分も賛成である。色んな意見があった。私は、子供にはこんなことで、時間つぶしをしてほしくはない。先生も気さくな方で、よく飲んで、召し上がっていらした。出身は淡路島らしい。震災の時は中学生だった。大学がこちらで、旦那さんと知り合い、結婚して移り住んでしまったようだ。自分の参加は、最初、場違いな感じもしたが、わりに楽しく充実した飲み会となった。

35年ぶり

2014-05-20 18:02:33 | Weblog
先日、隣家に町の回覧板を届けにいくと、車内から私を呼び止める女性がいます。どちら様?と尋ねると、なんと中学校の同級生なのでありました。よくわかったねぇ?というと、以前から家を知っていたようでした。予定がたてこんでいましたが、懐かしいので、暫く話し込んでしまいました。その彼女、町で一番の大農家の子でありますが、今は、認知症の母親と二人きりで暮らしているとのことでした。中学の担任の先生の話になりましたが、最近、偶然に再会したとのことでした。考えてみれば、35年ぶり。声をかけてくれなければ、多分それきりでしょう。それにしても、遠慮がちに○ちゃん、て呼んでいい?というので、もちろん!と答えました。今も昔も、この町の老若男女は、いつも私のことを○ちゃんと呼びます。

最近の疑問

2014-05-18 18:46:28 | Weblog
巷では集団的じえい権のことで、にわかにあわただしい動きが始まっている。様々な考え方があると思うが、大変疑問に感じるのが、マスコミの報道内容だ。たとえば、全国世論調査において、集団的じえい権を容認するパーセンテージは、読売しんぶんでは71だが、中日しんぶんでは34だ。この差はいったい何なのだろう。素人目にも、何らかの意図的な操作を感じてしまう。後で知ったのだが、前回のと知事戦においても、もと首相らの演説放映を極力抑える取り決めが、TV各社にあったようだ。やはりとは思ったが、実に残念な話だ。本来、中立であるべきはずのマスコミが何らかの力・思惑に左右されるようでは、果たして明るい日本の未来はあるのだろうか?と思ってしまう。

火消し

2014-05-13 19:46:27 | Weblog
火消しに躍起になればなるほど、そこに何が存在するのかと邪推してしまう。否定するなら、冷静に安全だというデータを出せばよいではないか。私は、本当の住民の生の声を聞きたい。利害関係のある団体の話はもう聞きたくない!

ふうひょう被害

2014-05-12 20:15:54 | Weblog
あるマンガ本の記述が、ふうひょう被害につながるとして、問題になっている。私はむしろ、ふうひょう被害という名のもとに、言いたいことを封じ込められる危険性の方を危惧する。それは、震災以来感じてきたことだ。事実無根のことならば論外だが、そうでなければ、大いに語りあって議論を深めたらいい。陳腐な言葉だが、火のないところに煙はたたぬという。少しでも何らかの情報があれば、それを無視せずに警戒すればいい。ふうひょう被害のことを言うならば、しっかりとした安全を証明するデータを示して、反論したらいい。ものを言えない社会になってしまったら、この国の明日はない。正しいことは、後で必ず歴史が証明してくれるはずだ。

音楽評

2014-05-12 13:01:16 | Weblog
昨日のまいにち新聞の演奏会評で、先月のプレスラー・庄司デュオリサイタルの批評が載っていた。サントリーホールでの演奏会の様子だ。まいにち新聞編集委員・うめづ氏の評論は、評価する人もいるだろうが、私は好きではない。音楽評に、いつも文学的な虚飾がみてとれるからだ。しかし、今回の評は、珍しく納得できるものであった。もうだいぶ日はたってしまったが、あの時の「雨の歌」と遺作ノクターンの素晴らしさは、自分の中では未だに色褪せてはいない。本当に芸術の奥深さを痛感した出来事であった。

土牛の絵

2014-05-11 14:17:29 | Weblog
先日、NHKTVで日本画家・土牛の番組を観た。土牛といえば、富士山の絵を思い出すが、ここでは「醍醐の桜」が取りあげられていた。対象を凝視して、その内面を写生する。68歳の時に転機が訪れたという。新しい世界への模索。独自の表現を探し続けた。弟子の西田氏による桜の描き方の再現も興味深かった。塗っては乾かす作業100回以上。場所によって塗る回数を変える。実に多くの見えない工夫がなされているようだった。土牛の言葉で印象に残ったもの。「無難なことをやっていては、明日は訪れない。芸術に完成はありえない。どこまで大きく未完で終わるか。」101歳まで精進し続けた画伯。以前、南佐久の美術館に出かけたことを思い出した。

連休最終日

2014-05-06 21:37:01 | Weblog
地元フィルの演奏会に出かけた。お目当ては、大森さんがソリストのグリーク・ピアノ協奏曲。昨年も聴いたが、このオーケストラは、まだまだクリアしなければならない問題が山積している。サウンドを磨かなければならないことはもちろんのこと、音量のバランスが時々悪い。管楽器が変にうるさく聞こえたりする。トゥッテイで音量を少し落とすべきところなのに落ちていない。さらに、木管の旋律の歌いかたも、より研究する必要がある。全体の合わせの回数、練習時間は限られているであろうが、歌い回しがソリストに比べて浅かったりすると興ざめである。大森さんは熱演していたが、やはりブランクが長かったためであろうか、タッチが微妙にしっくりいっていないように感じた。