河童の歌声

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ポンポン蒸気船

2021-02-06 06:03:46 | 船舶
懐かしい!「ぽんぽん船」のエンジン音


ポンポンポンとリズミカルで独特の排気音を轟かせて走る小型船。
それがいつの日にか消えて無くなっていました。
それに気づいたのは無くなってからかなり経ってからだった思います。



私は、あの船の事を(ポンポン蒸気)と、勝手に名付けていました。
私達ではなく、あくまでも個人的な(私)です。
というのは、ポンポン蒸気船の事など友人たちと話した記憶など無いからです。
あんな物は川や海で、当たり前にポンポンと言いながら走っていたからです。
それはまるで空気の様な存在で、誰も気にも留めなかった、そういう感じでした。



中学校への通学路は目黒川にかかる橋を渡って行ったのですが、
その頃はまだ、ポンポン蒸気船がこういった艀(はしけ)を何艘も、
引っ張って行く風景を見ていました。
あれは一体いつから居なくなってしまったのでしょう?


そもそもポンポン蒸気って何なんでしょう?

あれは、「焼き玉エンジン」と言います。
それは知っていました。
で、それはどういった仕組みで動くのでしょうか?



この絵を見て、分かる人はもう全部、分かっちゃったと思います。
赤く丸いのが、焼き玉。
これを熱く熱する事で、ガソリンエンジンなら点火プラグの役目をしています。
左側から送られてきた燃料が焼き玉で熱せられ、爆発。
そのエネルギーはシリンダー内のピストンを押し下げ、
その下にあるクランクを回して回転運動に変えて、スクリューを回すのです。
仕組みとしてはディーゼルエンジンと同じなんですね。

Hot-bulb engine 焼玉エンジンとは(農業用小型発動機)Small Japanese ball 2 cycle engine.


エンジンをかける為には、まず焼き玉を熱します。
その為には焼き玉の上にある蓋を外して焼き玉を取り出します。
焼き玉には取り出しやすくする為に穴が開いているのもありました。

燃料は軽油なんですが、実は重油が使えたのです。
これが凄いメリットでした。
燃料の噴射圧力は低く、シリンダー内圧よりやや高い程度。
焼き玉に噴射するというより、垂らすといった感じでした。

焼き玉は熱をもっており、その熱とシリンダーの内熱により、
気化、発火し燃焼が始まります。
燃焼時の熱の一部で焼き玉は熱せられ、次の燃焼の火種になります。
不純物が混じった粗悪な燃料でも動き、構造が簡単な為に、広く使われました。

小型の焼き玉エンジンでは、焼き玉を取り出して過熱しましたが、
大型になるとそれは出来ないのでバーナーで加熱しました。
過熱にかかる時間は10~15分程度でした。

焼き玉エンジンが画期的だったのは、
それまで使い道のなかった重油が使えた事です。

石油から精製した灯油、軽油、ガソリンなどは、
気化器を使って霧状に出来る為、シリンダー内に供給して着火する事が出来ました。
しかし、それらを精製した残りで出来る重油は、
粘性(粘り気)が高く、気化器で気化する事が難しかったのです。
そこで液体のまま焼き玉に直接噴射して爆発させる方法が考え出されたのです。
重油が安価だった事もあり、焼き玉エンジンは、
ディーゼルエンジンが普及されるまでの間、広く使われました。

焼き玉エンジンは1897年(明治30年)頃から広まりました。
それは長い間、主に小型船の主エンジンとして使われていました。
1919年(大正8年)、
日本初のディーゼルエンジンが船舶用に製造されます。
その運転費用が焼き玉エンジンの70%だった為に、
当時の漁船界に一大センセーションを巻き起こします。
これ以降、ディーゼルエンジンを搭載する船が増えてゆきます。

しかし、燃費は劣るものの、ディーゼルエンジンに比べて本体価格が安く、
取り扱いが容易だった為に、小型船では相変わらず焼き玉エンジンが使われていました。
1923年(昭和8年)に、ヤンマーディーゼルが世界初の小型ディーゼルエンジンを完成させ、
1926年(昭和11年)になると水産庁が小型漁船をディーゼル化する方針を打ち出し、
焼き玉エンジンの命運は、風前の灯火となってしまいます。

だが、第二次世界大戦の勃発が焼き玉エンジンを延命させる事になります。
ディーゼルエンジンの生産ラインは軍用に振り向けられ、
焼き玉エンジンが再び大型漁船にも使われる様になったのです。

戦後になっても日本は物資不足だった為に、
焼き玉小型船は珍重され、1949年(昭和24年)まで増加していました。
しかし、その後はディーゼル船の割合は年々増加し、
1958年(昭和33年)には焼き玉エンジンを追い越し、
1969年(昭和44年)にはディーゼルエンジンが80%に達しました。
翌1970年には焼き玉エンジンの占有率は1%を切り、
2000年(平成12年)を最後に、焼き玉エンジン船は姿を消しました。

もう、あの懐かしいポンポンという音を聞く事はなくなってしまいましたが、
海や川に行くと当たり前に響いていた、あの音は何かほのぼのとしますね。
ぽんぽん蒸気には、そんな話があったのでした。





コメント (2)
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男装の麗人・川島芳子

2021-02-04 15:25:31 | 歴史






男装の麗人・川島芳子(よしこ)と聞いて、どれだけの人が知っているでしょう?
戦前と戦中の日本と中国を舞台として活躍した女性ですから、
殆どの人は名前すら聞いた事はないかも知れません。

私は、子供時代にその名前を母から聞かされました。
母は娘時代に中国の奉天駅(ほうてん)で、川島芳子を見た事があるそうです。



その頃の川島芳子の人気は絶大で、
それは日本の若い女性が、宝塚の男役スターに憧れるのと同じだったみたいです。



川島芳子の父親は粛(しゅく)親王。清王朝の血を引く皇族でした。
彼女の本名は、愛新覚羅、顴珅(あいしんかくら・けんし)
(厳密には名前のけんしの文字は違う)
漢名は金壁輝。その他にもいくつかの名前を持っていました。
1907年~1948年(享年40歳)

愛新覚羅の名前は、以前、ブログに書いた、
「天城山心中、天国へ結ぶ恋」の、愛新覚羅慧生(あいしんかくら、えいせい)が居ましたね。
彼女も清王朝の血縁でした。
川島芳子の父には何人かの愛人と、20人くらいの子供がいました。
芳子もその子供の一人でした。
清王朝の血縁、一族はきっと沢山いるのでしょう。
現在、日本に何人もの愛新覚羅姓の人達が住んでいます。

1913年(大正2年)
父親の粛親王は川島浪速(なにわ)と義兄弟の契りを交わし、
娘を養女に差し出します。
その時、父親は川島に「君に玩具を進呈する」と言ったそうです。
1915年、芳子は来日し川島家に入ります。
芳子は8歳、川島浪速は47歳でした。







川島浪速は、当時、大陸浪人と言われた人種でした。
大陸浪人・・日本の大陸進出に係った民間活動家。
彼は満蒙独立運動の先駆者でした。
(満州、蒙古を日本の勢力圏とする運動)
川島浪速は戦後に亡くなりますが、日本と中国を股にかけ、
民間人と軍人と、外国人らの間を上手く立ち回って、かなりの資産を築きました。

浪速は若い時に罹ったマラリアの治療が不充分で、
年々耳が悪くなり、晩年は殆ど聞こえなくなりました。
そういったイライラがあった為でしょうか、
浪速は幼い芳子に手を付けたみたいです。
事情に詳しい人に言わせると、「彼等は血の繋がりはない、
しかし、あれは近親相姦だ」と嫌悪感覚えたそうです。
私も母から「そういった事だったみたいよ」と、聞かされました。
きっと最大の原因はそれだったのでしょう、
芳子は17歳の時にピストル自殺未遂事件を起こします。
その後、彼女は断髪し男装する様になりました。



1927年、21歳の芳子は、
24歳の蒙古族のカンジュルシマブと結婚しました。
しかし、この結婚は長くは続きませんでした。
芳子が家を出てしまったのです。





1930年(昭和5年)芳子は日本軍人の田中隆吉と知り合います。
田中は戦後まで生き残り、最終的な階級は少将でした。
彼等はすぐに男女関係になり、田中は芳子の語学力、明晰な頭脳、行動力を買い、
スパイ工作の世界へと芳子を引きずり込んで行きました。

田中とは別れる事になったのですが、
日本に帰った芳子は、昭和の天一坊と言われ、
30代の若さで数十億円を儲けた相場師と一緒になったりと、
華やかさから縁の切れない生活を送っていました。

彼女がどの程度スパイ行為を働いたのかは、分かりませんが、
日本と中国を行き来し、中国人、日本人、外国人、軍人、民間人と、
持ち前の行動力で動き回ったのかもしれません。



芳子は東洋のマタハリと言われました。
第一次大戦でパリを中心にしてスパイ行為を働いたとしてフランス軍に捕まり、
死刑となったオランダ人のダンサーです。

しかし、段々と彼女の存在はうとまれるようになります。
戦争が終わると彼女はスパイ行為で中国に逮捕されました。
裁判には何千人という傍聴希望者で溢れたそうです。
彼女の人気は全く衰える事は無かったのです。





彼女は、死刑を回避しようと、自分は中国人ではなく日本人だと、
川島浪速に戸籍を求めたりもしましたが、
1948年(昭和23年)3月25日に、
北平第一監獄(北京なのでしょうか?)で、銃殺されました。
享年は40歳。

辞世の句ではありませんが、彼女が若い頃から好んでいた句があります。

家あれども 帰り得ず
涙あれども 語り得ず
法あれども 正しきを得ず
冤(えん)あれども 誰かに訴へん

生まれた血筋ばかりはどう仕様もない。
生まれた時代も、どう仕様もない。
時代と戦争に翻弄されるがままで、本当に気の毒ですね。
やはり、人間は普通が一番いいのかも知れません。


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加山雄三と光進丸

2021-02-02 15:20:44 | 船舶
加山雄三と言えば、光進丸。
光進丸と言えば加山雄三、というくらい日本人には有名な船です。







写真は3代目となる、最後の光進丸です。1982年製造。
全長25.6メートル。全幅6.61メートル。104トン。910馬力×2基。
速力14ノット(26キロ)定員18名。



しかし、加山雄三の分身の様な存在だった、
3代目・光進丸は2018年4月に火災で失われてしまいました。
既に81歳となっている加山雄三には、
もう4代目の光進丸を造る余裕は無いと思われます。
それだけに、光進丸を失った時の彼の落ち込みは激しいものでした。


加山雄三が大の海好きである事を知らないという人はまず居ないでしょう。
彼は小学校の時の家庭教師が、東京商船大学の学生で、
海や船の話を聞いているうちに、
「自分でも船を造りたい」と思う様になったそうです。

自分で船を設計したのは10隻くらいあるそうで、
光進丸も彼の設計による船でした。







初代・光進丸は1964年の完成。
映画「海の若大将」に登場しました。





これは2代目の行進丸。
1969年(昭和44年)完成。
全長15.35メートル。全幅4.12メートル。36.35トン。
速力24ノット(44キロ)定員12名。
初代に比べてスピードアップが凄いですね。
「光進丸」の歌のモデルになったのは、この船だそうです。

私が若い頃、江の島ヨットハーバーで見たのは、
この船だったと思います。
沢山のファンが眺める中を、加山雄三がデッキを歩き回ったりしていました。

2016年10月に妻と西伊豆旅行に行ったのですが。
堂ヶ島には「加山雄三ミュージアム」がありました。





雄ちゃんと一緒の記念写真だったのですが、ひたいが眩しかった(涙)



彼は4代目の行進丸も設計し、試作モデルも造っていたみたいです。
しかし、この船の完成はまずあり得なくなってしまいましたね。

しかし、加山雄三というスターは凄い才能の持ち主ですね。
俳優・歌手・船の設計・作曲・絵画・・出来ない事はありません。
男と生まれたからには、こういった男になりたいと・・・
そりゃみ~んなそう思っていますけどね、現実がね(笑)


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