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私は以前、横浜に長く住んでいましたので、
桜木町事件という電車の火災事故で多くの人が亡くなった事件を知っていました。
その場所は、横浜駅から桜木町駅の間の高架になっている場所です。
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高架になっている下は、この様な無機質で半分暗渠みたいな道で、
まるで面白味の無い直線が1キロも続くのです。
私はそこを3回くらいは歩いた事があります。
そこを歩くと「この真上の線路で、あの桜木町事件があったのだな」と、
思わずにはおられませんでした。
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事件は1951年(昭和26年)4月24日、午後1時38分頃に起きました。
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国鉄・桜木町駅から200メートルくらい横浜駅寄りの上り線で、
架線工事をしていた作業員が工具のスパナを誤って落としてしまったのです。
その為に架線がワイヤーに接触しショート、ワイヤーが断線しました。
断線して架線が垂れ下がってしまったので、
作業員たちは上り線の列車を進入させない様に手配をしましたが、
下り線に対しては措置を取らずに、通常通り運行できると判断したのでした。
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その時、横浜駅方面から下り電車が進入して来ました。
運転手は架線が垂れ下がっているのに気づかずにそのまま時速35キロで進入。
その時、垂れ下がっていた架線がパンタグラフに絡まってしまったのです。
運転手は急いでパンタグラフを降ろそうとしたのですが、
パンタグラフは破損し電車の車体と接触しショートしてしまいます。
電車の屋根の部分から発火し、火は瞬く間に車体へと燃え移ってゆきました。
先頭車両は瞬く間に燃え広がり、火は2両目にも移ってゆきました。
先頭車両は10分間で全焼、2両目は半焼したのでした。
この火災で死者106人、重軽傷者92人を出す大惨事となってしまいました。
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事故車両の窓は3段構造になっていました。
上の段と下の段は上下動させて開きますが、真ん中の窓は固定式で動きません。
上下の窓の隙間は、29センチでした。
その隙間からの脱出は火災の中では殆ど不可能でした。
自動扉を開けようにも電流のショートにより開けられず、
乗客たちは非常用コックの位置など分かる筈もなく、
車両と車両を連結する通路のドアは外部から鍵がかけられていて開く事は出来ませんでした。
かろうじて1両目と2両目の間のドアは開けられる筈でしたが、
そのドアは左右にスライドさせる形式ではなく、
取っ手を引っ張って開ける形式だった為に、
脱出しようと必死で押し寄せる乗客の圧力で開く事が出来なかったのです。
更に事故現場が高架路線だった為に消火活動も殆ど出来ずに、
外の人々は、乗客達が助けを求めながら焼け死んでゆく姿をただ見ているしかないという、
地獄絵を産んだのでした。
この当時の電車は戦後の、まだ未成熟で不完全な車両で、
極めて燃えやすい材料やペンキで覆われていたのです。
乗っていた客たちは逃げ場の無い密室で焼け死ぬしかなかったのでした。
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この事件を機に、車両は進歩して行きましたが、
人間は生まれてくる時代を選ぶ事は出来ずに、
「こんな理不尽な死に方があるか」と思っても、どうにもならないのです。
電車の中に居たか、外に居たかで、天国と地獄。
時代とは言え、本当に気の毒な事件でした。