河童の歌声

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インパール作戦

2015-09-15 08:53:05 | 軍事
インパール作戦というのは、
1944(昭和19年)3月~7月に日本軍が行った作戦で、
その杜撰(ずさん)さにより歴史的大敗北を喫し、無謀な作戦の代名詞となりました。

昭和16年12月に始まった大東亜戦争(日本軍がアメリカ・イギリス・中国などを相手にした戦争)は、
勝ち戦だったのは、ほんの半年で、
昭和17年6月のミッドウェー海戦の大敗北を転機として、負け戦の様相を呈してきます。
連戦連敗の日本軍は、昭和19年ともなると気息奄々の状態でした。
何処かで華々しい勝利をものにしたかった日本軍(ある特定の将軍)が、
目を付けたのが、インド・ビルマ国境の小さな町インパールでした。
イギリス軍が守るその小さな町など、戦略的価値はゼロなのですが、
そこなら落とせる、落とせば華々しい勝利で国民や兵士たちを奮い立たせる事ができる。

インパール作戦というのは、そういった馬鹿々々しい発想で始まったのです。
それを提案したのが、後世にその悪名を轟かす、牟田口廉也中将でした。



最初、軍部はその作戦に反対でした。
物資の補給に難点があったからです。
インパールに到達するには、ビルマのアラカン山脈を越えなければなりませんが、
そこを陸路で行軍するのです。
制空権はイギリスに奪われているので、人力(牛馬)だけで重兵器を運ばなければならないのです。
そして、インパールに到達してもその後の物資を輸送する事は殆ど望めないのです。

しかし、牟田口中将は「ジンギスカン作戦」なるものを提案します。
要するに行った先で草木・動物を食料として行軍すればいいという、
真に馬鹿げた、いい加減な事を言い出したのです。
最初は反対していた軍部も牟田口中将の情熱に負けたのでしょうか?
作戦にゴーサインを出しました。

行軍が始まりました。
牛馬での行軍ですから、重火器といっても大した兵器は運べません。
しかし、それすら山脈越えは無理で、結局大した兵器は運べなかったのです。
そんな稚拙なヨタヨタの兵器で日本軍はインパールを攻めました。
最初は少数のイギリス軍しか居なかったのですが、
イギリスは航空機で一気に重火器を運び込んで重兵装に武装し日本軍に応戦します。

そうなると弾薬・食料の配給の無い日本軍にもう勝ち目はありません。
もう、戦争という状態ではなくなり、只々敗走の道へとなっていったのです。
そんな悲惨な状況に死刑覚悟で命令を無視して退却を決した将軍が居ました。
それが、佐藤幸徳中将です。



武器・弾薬どころか食料が全く無いのですから、兵士達の姿は兵隊でも何でもない、ただの浮浪者でした。
敗残のアラカン山脈を彼等は飢えに苦しみながら、
イギリス軍の追撃におびえながら、ただただ逃げ惑い落ち延びて行ったのです。
その道は「白骨街道」と呼ばれ、死屍累々たる餓死者に埋め尽くされていきました。

10万人の兵士が作戦に参加し、戦死者3万人、餓死者が4万人、
生き残って帰ってきたのが計算上では3万人居る筈ですが、多分それよりかなり少なかった筈です。
インパール作戦の生き残りと言うだけで、驚きをもってとらえられている位ですから。
餓死者4万人という数字はまさに驚愕です。

日本に帰還した佐藤幸徳中将は、牟田口廉也中将の宿舎に押しかけ、
「牟田口を出せ、叩き切ってやる」と軍刀を抜いて迫ったそうです。
それは正に鬼気迫る形相だったそうですが、牟田口中将は危機を脱して生き延びます。

陸軍は佐藤中将を精神鑑定にかけ「若殿ご乱心~」といった風を装い体裁をつくろいます。
牟田口中将は予備役に回され、士官学校の校長になります。
陸軍が佐藤を支持しなかったのは、上層部が作戦失敗を認めたくないという理由ですね。

牟田口中将は1966(昭和41)年に77歳で亡くなるまで、
自己弁護にきゅうきゅうとし、兵士達に対する謝罪は一切無かったそうです。
佐藤中将は1959(昭和34)年に65歳で亡くなっていますが、
一切の弁明をする事は無かったそうです。


さて、日本の軍隊という本質的なものが、ここにありますね。
ここに全てが読み取れますね。
縦社会だけで、横は無いのです。
それは現在になっても国民的な日本軍の体質・・私はそう感じています。

戦争中、東京湾に不時着水したB-29(アメリカの爆撃機)の搭乗員を救出に、
潜水艦などで救いに来るアメリカ軍と、
餓死者が沢山出ている状況を知りながら、作戦を止めようとしない日本軍。


今、日本は安保法でもめて、国会周辺に押しかけている人が大勢います。、
まあ私が戦争に行く事は絶対にあり得ないのですけどね。
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自転車という趣味

2015-09-13 07:14:02 | 日記
自転車を趣味とする人はかなり居ますね。

私も郊外にハイキングに行ったりした時に、
電車内に折り畳み式の自転車を持ち込んで来る人をかなり見かけました。
奥多摩駅だったか、そんな人達が駅前で自転車を組み立てていたりしていました。
そして、郊外の車の少ない道を颯爽と走る彼等の姿は、
まるで自転車が喜んでいる風にも見えるのです。

彼等、自転車乗りのファッションもまた素晴らしいものですね。
皆、思い思いのヘルメットと動き易い服装でビシッと決めています。
私の家の近所の多摩川沿いのサイクリングロードには、そんな人たちが隊列を組んで走っています。
その快適さは、きっといいもんだろうな~っと眺めています。

私は自分の自転車という物を持った事がありませんでしたが、
横浜に居た時に、駅まで行くのに自転車があったらいいかな~っと、
2万数千円でスポーツタイプの自転車を買った事がありました。
5段だか7段だかのギア付きです。

しかし、考えが甘かった。
私の住んでいた団地は坂がきつく、おまけに道幅があまり無いのです。
つまり蛇行しながらの運転が出来ないのです。
いくらギアが付いてるとは言え、直線的での走行は出来ませんでした。
急な坂道は自転車を下りて押すしかないのです。

全く、買ったばかりだというのに私はもう嫌気がさしてきました。
ものの数か月で友人に譲ってしまいました。
初めて持った自転車だったというのに・・・
そういった後悔の恨みつらみというのでは無いのでしょうが、
何となく自転車に乗りたいという気持ちから離れられない様な気が・・・

ですが反面、自転車という乗り物はあまりにも危険性が大きいのですね。
なので、大切な人には自転車に乗って欲しくないのです。
でも、自分が自転車に乗っている時は、あまりそんな事は考えないですね。
そこが落とし穴なのかも知れません。

夜、大型トラックとかが頻繁に走っている街道を、
無灯火で走っているなんて命知らずの自転車が時たま居ます。
そんなのは、まるで自殺行為なんですが、
それでもそれを跳ね飛ばしてしまったら、車が悪くなってしまうんですね。
世の中には一体、何を考えているんだみたいな人は居るんですね。

山の頂上まで自転車を担ぎ上げて来た人を数回見かけましたが、
小屋主は「馬鹿めが」と一刀両断で切り捨てていました。
本当に好きこそもののとは言いますが、色々な人が居るもんですね。

最近、ある芸能人が40万円だかの愛車を盗まれてしまいました。
40万円なんて聞くと、知らない人は「たかが自転車が」と驚きますが、
100万円を超える自転車だって珍しくはないのです。
趣味というのはそういった世界なんですね。

私も、颯爽と自転車に乗って郊外を走ってみたいという願望はあるのですが、
あれのあまりな危険性を思うと、やはり、きっとやらないんだろうな~。
残念だけど、ま、仕方ないか。
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地震予知に対する政府の無能は・・・

2015-09-12 23:11:59 | 日記
過去のミクシーにも書いたのですが、
東京などの首都直下型大震災はすぐそこに迫っています。

なのに、政府は大昔の地震学の権威者とやらの、
「何の役にも立たない」理論から一歩の進歩もありません。
地べたなど、いっくら掘じくったって、そんなものは何の役にも立ちません。
そんな古代の遺物的な事は、もうそこまで来ている大地震の予知には間に合わないのです。

では、我々は一体何を信じ行動したらいいのでしょう?
もう十数年前から、いっときは話題に上った人に、
「八ヶ岳南麓天文台」の串田嘉男氏が居ました。

また、その後には、
「青松倶楽部」の進村耕喜氏が居ます。

また、つい最近には
「MEGA地震予測」の、東大名誉教授の、村井俊治氏が居ます。

村井氏の事はあまり知りませんが、
前の2氏はいづれも地べたなど全く見向きもしません。
彼等はかなりな確率で地震予知の実積をあげていますが、
いづれもFM電波を使ったりで、空中の電磁波で地震の予知をしています。
(詳しい専門的な指摘をされると私にもよくは解らないのですが)
それでも、彼等は地震の専門家ではなく、いわゆるアマチュアなのです。

そこまで迫る大地震を予知する為には、
地震の大家などの肩書を持つ人達の意見など、どうでもいいのであって、
私たちは要するに「当てればいいのです」
当てる為には、素人だとか専門家だとかはどうでも良いのです。

地震の権威者とやらが、今まで「地震が来ますよ」などと発表した事が一体あったでしょうか?
ありませんね。
彼等は地震が起こった後になって、さも権威者的な見解を述べるだけですね。
でも、私たちはそんな(後の祭り)などを聞かされたからって、
それが何の役に立つのでしょうか。

私たちがあなた方(地震の権威者)にして欲しい事はただひとつ、
「いつ大地震が来るのか」その一点だけなんです。

現在の日本にとって、首都直下型大地震は、
オリンピック以上の最重要項目です。
それが来たら、オリンピックなど吹っ飛んでしまうんですから。
なのに、政府は地震予知の為に年間120億円という、
全く役にも立たない予算をつぎ込んでいます。
この20年では4000億円という無駄金を使ってしまったそうです。

年間120億円というと、月に10億円。
毎日3287万円を使ってしまうんです。
そんな大金を使って、それは地震予知には何の役にも立たないなんて・・・

地震の権威者っていい御身分ですね~。
毎日毎日3287万円もの大金を使って、大好きな地震研究とやらの世界でお楽しみ。
それでいて、世間マスコミからは「権威者」って、それって何なの?

さて、いざ大地震は来てしまった。
大被害が出て、死者も数十万人。
でも、権威者はこう言います「予想外、想定外だった」と。
そんな後の祭りの言い訳の為に年間120億円。

今の政府は何でこんなムダ金をいつまでも使うのでしょう?
何故、本気の地震予知の為に、アマチュアを国家的規模で支援しないのでしょう?
彼等アマチュアは、かなりな確率で地震予知の実積をあげているのです。

一旦、大震災が来たら、その被害額は何兆円にもなるでしょう、
その百分の一の金額でも彼等支援に注げば、被害額はかなり減るんじゃないのでしょうか?

一体、東京はどうなってしまうのでしょう?
何故、政府は地震に無関心なんでしょう?
私にはまるで理解できないのです。










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マレー沖海戦

2015-09-12 05:20:54 | 軍艦




1941(昭和16)年12月10日。
マレー半島、シンガポール沖の海で、歴史を塗り替える海戦が起こりました。
それが「マレー沖海戦」

「海戦」と言うのは、普通、軍艦対軍艦が対戦するものというのが常識ですが、
このマレー沖海戦は、全く違っていました。
軍艦対航空機だったのです。
軍艦はイギリス軍であり、航空機は日本軍です。
日本軍には、ただ一隻の軍艦もなく、50機といわれる航空機がその全てでした。

何故に歴史を塗り替えたかと言えば、
「航空機の威力がとてつもないものだ」という事実を目の当たりにした事でした。

それまでは、海の王者は戦艦であり、
完全な状態にある戦艦を、航空機で沈める事など、
あり得ない事と世界中の軍、関係者は思っていたのです。
それが、航空機だけで、たった2時間で沈められてしまったのですから、
それは世界中の軍関係者に大ショックを与えました。


当時イギリス支配下にあったマレー半島を攻略すべく、
日本軍は3万5千人の兵をマレー半島目指して艦船で送ります。
それを阻止しようとイギリス東洋艦隊の、
戦艦「プリンス・オブ・ウェールズ」35000トンと、
巡洋戦艦「レパルス」32000トンがシンガポール港を出撃します。

巡洋戦艦という艦種は、戦艦に比べ、スピードは速いが、
その分、防御力は弱いという艦種です。
つまり、レパルスはプリンス・オブ・ウェールズに比べて打たれ弱いのです。

12時45分、海戦開始。
最初に沈められたのは、やはりレパルス。
しかし、プリンス・オブ・ウェールズもほどなくその後を追う事になります。
プリンス・オブ・ウェールズに座乗する司令官は、
トーマス・フィリップ大将。
彼は強烈な戦艦最強支持者であり、大鑑巨砲主義者でありました。

大鑑巨砲主義・・・
大きな軍艦に、大きな大砲を積む。
それこそが海上においては最強だという考え方。
その究極が、世界最大の戦艦大和であり武蔵でした。
つまり、日本海軍ほど「大鑑巨砲主義」を信じていた軍は無かったのですね。

トーマス・フィリップ大将の親友は(名前は失念)
彼と違って、航空機最強主義者でした。
海上最強を誇る戦艦を、航空機だけで沈める事は、絶対に可能だ。
彼等は親友でありながら、その意見の食い違いをお互いに譲らず、
絶交するという事態になってしまいました。

完璧な状態にある戦艦は、航空機など物の数ではないと信じていた、
自分が乗る、イギリスが誇る新鋭戦艦が、
たった数十機の航空機の前に、まるで歯が立たず2時間で沈められて行く光景は、
彼を絶望に追い込みます。
絶交した親友との事を思うと、彼にはもう希望はありませんでした。

部下の兵が沈みゆくプリンス・オブ・ウェールズからの退艦をうながしますが、
彼は涙ながらに「ノーサンキュー」と言って、艦と運命を共にします。

イギリスの首相・チャーチルは、
第二次世界大戦中で最もショックを受けたのが、マレー沖海戦だったと述べています。


この海戦は、以後の戦争のやり方を根本的に変えてしまいました。
航空機こそが戦争の主力であり、
今まで信じられていた戦艦最強主義は、意味の無い事になってしまったのです。

その戦艦最強主義を最も信じていたのが日本軍であり、
それを根本から覆してしまったのも日本軍だったという皮肉。

これ以降の第二次世界大戦は、その様相を大きく変えていったのです。
それが、マレー沖海戦でした。
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住みたい町

2015-09-11 11:45:36 | 日記
私は去年の5月から、東京の府中市に住む様になりました。

それ以前は横浜の、相鉄線・二俣川という駅に45年間住んでいました。
最初は二俣川駅行きだけのバス(15分)しかありませんでしたが、
かなり後になってからは、JR横須賀線・東戸塚駅行きのバス(30分)が、
乗り入れる様になり、多少は便利になりました。

ですが、住み始めた頃は無関係だった歌声喫茶に行く様になると、
二俣川であれ、東戸塚であれ、それは遠くて遠くて不便きわまりなかったのです。
皆が歌声喫茶の二次会で盛り上がっているのに、
私だけが「お先に失礼します」と途中退場するのは、
盛り上がっている雰囲気に水を差すし、実に後ろ髪引かれる思いで切なかったのです。

「あと15分、あと15分あれば皆と一緒に帰れるのに・・・」
でも、その15分で終電が無くなっちゃうんです。
たった一人で終電間近の電車に酔っ払いながら帰る時は、本当に辛かった。

そんな思いがあって、
では、何処に住めば歌声喫茶に通う為には理想的なのかと、
パソコンの駅探索を駆使して検索した事があります。
正解は・・・国分寺でした。

イヤー、憧れましたね・国分寺!
「国分寺に住んでさえいれば」と、いっつも思っていました。
ですが、今は府中。
これはかなりの出世です。
歌声喫茶に通う人達の世界広しと言えど、府中と言うのはかなりな地位なんだぞッ!
横綱とはいかなくても、関脇くらいのデカイ面の出来る地位なんだぞ。
「府中どんちゃか」のメッカなんだぞ。
来年で終わりだけど・・・


ま、それは兎も角、
過去にもそんな事を考えた事がありました。
多分、多くの人達がそうだとは思いますが、
仕事という足かせさえ無かったら、「自分はここに住みたい」という町があると思うのです。
私は以前は松本に住みたいと思っていました。
山男をやっている時に、よく松本に行ったのですが、
あそこは雪こそあまり無いのですが、寒い町です。
寒いのは大嫌いな私ですが、それでも松本の街は「いい町」だと感じていました。

北アルプスの山々が見え、昔の日本を思い起こさせる様な感覚がありました。
安曇野などは日曜日に散策に行ったら、まるで童謡の世界だと思います。
いいトコですね~。

歌声喫茶にはまってからは仙台に行く事が俄然多くなりました。
そうです、言わずと知れた歌声喫茶の最高峰「仙台バラライカ」です。
19回行きました。
今年は20回目のバラライカ詣でを年末に行く予定です。

仙台・・ここも実に素敵な町ですね。
若い頃に何度か仙台は行ってるんですが、
バラライカ詣でをする様になってから、改めて仙台の良さを感じる様になりました。
新幹線を使えば東京まで2時間足らずで行けるし・・・
東北最大の街と言っても、やはり東北らしい静けさはあるし、大都会でもあるし。
歌声喫茶バラライカでお花見をする三神峯山公園に行くと、
上野公園とは大違いの静けさで、仙台の人達の憩いの場所な事が感じられ、
それはいかにも東北らしくていいのです。

国分寺・松本・仙台・・・
本当に勝手気ままに「住みたい町」に住めたらどんんなにか素晴らしい事でしょうね。
コメント (4)
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