河童の歌声

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最も想い出深い力士・明武谷

2015-09-18 23:56:50 | 相撲


明武谷は、本名を明歩谷と言います。
本名を四股名にしていた時期も長かった。

今の相撲さんには、もう一人も残っていないソップ型(いわゆる痩せ型)の代名詞であり、
その端正な顔立ちは外人女性に最も人気がありました。
これほどハンサム(今で言うイケメン)力士は現在に至るまで誰も居ませんね。
その当時の力士の平均身長は182センチ程度でしたから。
彼の、身長189センチ・体重113キロは、まさに長身痩躯の見本でした。



1937年4月生まれ北海道出身。
角界を離れてしまいましたが、現在は78歳になっている筈です。
最高位は関脇でしたが、「起重機」という愛称で、その長身を利した(吊り出し)を得意技としていました。
同じ時期に明武谷と同じに、吊り出しを得意技にしていた、小兵の若浪(178センチ)が居て、
彼の吊り出しは小兵力士ゆえに、「天井を向いて吊る」と言われました。
明武谷と若浪との吊り合戦は実に想い出深い一番であり、
今ではそういった技と技とのぶつかり合いの相撲というのは、殆ど無くなっているのが残念です。

あの大横綱・大鵬との相撲なんていうのも想い出深いし、
彼が土俵に上がっただけで(サマになる)という、
言ってみれば「お金の取れる」力士であったと思います。
そういった力士こそファンには、たまらない魅力であり、
そんな力士の出現を私達、相撲ファンは(今ではそうでもなくなってしまってますが)望んでいるのですね。

今の力士は昔で言えば、みな(アンコ型)ばかり、
その為に、押し合いへし合いの押し出し、寄り切りばかりの決まり技。
そんな相撲なんて面白くも何ともないんですね。

在位期間は、1954(昭和29)16歳~1969(昭和44)32歳。
引退後は親方として後進の指導をしていましたが、
妻の影響でキリスト教系の宗教「エホバの証人」の宣教師になり、
(格闘技は聖者の教えに反する)として、角界を去りました。(43歳)

「明武谷」
彼が相撲界に与えた存在感は一種独特の価値がありました。
そんな相撲さんを、再び見られる事があったなら・・・
本当に、そう願っています。


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空の要塞・B-29

2015-09-18 07:36:50 | 軍事
もう30年以上も前の話でしたが、私の母がこんな話をしてました。
「何処だかの女子高校生が、日本が過去に戦争をした事を知らなかったそうよ」

「へ~、日本とアメリカが戦争したの。それでどっちが勝ったの?」

そんな事が新聞に載ってたそうよ・・・と。

それを聞いた私はかなり驚きました。
日本が戦争をした事を知らないッ!
これは殆ど‘絶句‘ものでした。

また、これは私自身の経験ですが、
ある3人の若者(20歳くらい)が、「忠臣蔵」を知らなかったのです。
この時もかなり驚きました。
あれほど年末になるとテレビ等で放映されているのに、こいつらはアホかと思いました。

私の友人(昭和25年生まれ)が、ある時、私との会話でこんな事を言いました。
「B-29?俺それ知らないよ」
私は思わず「エッ?」と思いました。

彼は九州の福岡出身、それで戦後の昭和25年生まれ。
東京出身ならいざ知らず、九州だと、もうB-29は知らないのかな~?っと思いました。


あのね、B-29というのはアメリカの爆撃機で、広島・長崎に原爆を落とした飛行機なんだよね。





それまでの爆撃機(爆弾を投下する為の飛行機)と決定的に違うのは、
与圧室を持っているという点。

つまり高高度(9000メートル以上)の高さを飛ぶと、
酸素は薄いし、寒いしで、酸素マスクや防寒着などを付けないと無理だったのですが、
B-29の搭乗員は半そでで乗ってたくらいなんです。
つまり、現在私たちの乗っている旅客機と同じという訳です。

しかし、その怪物B-29を向かえ撃つ日本の戦闘機は、それほどの高高度は至難でした。
絶対に無理ではありませんでしたが、その高度に達するまでは凄く時間を要し、
操縦士は寒いし、酸素は薄いし、
戦闘機のエンジンは能力的に限界で、ほんのチョッとだけしかの戦闘時間しか残されていなかったのです。

それを迎え撃つ空の要塞B-29はと言えば、
優れた火器管制装置が搭載されていて、
非常に高い練度を必要とされた機銃射撃が、誰にでも行える様になっていて、
命中率が驚異的に向上していたのです。
おまけに、その機銃が機体にハリネズミの様に(13門)多数装備されていたので、
日本の戦闘機はうかつに接近する事さえままならなかったのです。
最後はB-29に対し、体当たりをする戦闘機すらあったのです。
それほど撃墜するのが難しかったのですね。

B-29の総生産機数は3970機で、
日本への参戦は昭和19年11月からでした。

10人の乗組員によって、9トンの爆弾を搭載する、この空の要塞は、
日本中を焦土と化し、行きつく先には、広島・長崎への原爆投下があったのです。



エノラゲイ。
B-29には一機一機、個別に名前が付けられていたのです。
それが広島で10万人を殺した飛行機・B-29でした。


B-29というのは、そういう飛行機・空の要塞の爆撃機だったのです。
知らなかった人も、少しは覚えておいてね。





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