私の町 吉備津

藤井高尚って知っている??今、彼の著書[歌のしるべ]を紹介しております。

「そのあきらめしるべきようは・・・」

2013-04-12 11:47:41 | Weblog

「歌は詞をえらばずつくろはず、思う心をただありにいうをよし」というのでななく、高尚は「ゆえあるおり事あらん時に、おもふこころをただいひては、いかに詞をつくしていふともかぎりあれば、あはれと人の聞く事なきを」と云って、
 歌を詠む事は見たりきいたりしたものを、その心を深くさっして、ことばよよりすぐって、「しめやかに」物静かにしみじみとした感じの出た歌ならば、それを見た人が、その歌を「あはれ」しみじみと感心して立派な歌だとして見てくれるのである。このような歌でなくてはならないと云っているのである。形だけを重んじる風情があるがそれは「ひがごと」まちがいであると云っています。

 これはちょっと話しが違うかもしれませんが、高尚が歌右衛門と語らった別荘「鶏頭樹園」のすぐ傍に向井去来の句碑「秋風や鬼とりひしぐ吉備の山」が立っていますが、この歌に付いて、高尚はどんな感じで見ていたのだろうかと云う思いが、歌のしるべを見ておりますと思うのです。
 と云うのは、高尚は定家の和歌庭訓の「拉鬼体」について「いたく歌のさまにたがえる」と云っているのを見ると、この「おにとりひしぐ」つまり「拉鬼」と云う詞自体に付いてにあまりいい感じを持ってないのではないでしょうかね。


歌よむしるべの書

2013-04-11 13:36:55 | Weblog

歌を詠もうと思えば、先ずその参考にすべき書として、高尚は
 「ふるくは定家卿の和歌庭訓、為家卿の詠歌一体、阿佛房の和歌口伝などという書のたぐひ見え、近き世にもかける人数々あり」
 と挙げております。そして、近き世のこれら数々の書物はどれもこれもみな「正しきしるべにはあらず」と思えるから、自分がそれを補って、正しい歌のしるべを書いたのだと。随分と自信ありげな言葉を書き連ねております。庭訓、一体、口伝の中にも「・・・歌よくよみたまひし人々のしわざなれば、さすがによき事もまじれり」とあります。そしてこれらの中の何がよいか書いていますが、あまり専門的になるのでやめます。

 でも、高尚は、「詞をえらばずつくろわず、思う心をただありにいうをよしと」、近頃の歌詠みはいうがひがごとぞ」と強く言いきっております。


歌はなにのためにやうありてよむものぞ

2013-04-10 10:54:18 | Weblog

 高尚の「歌のしるべ」について暫らく書きます。
 まず、歌は、刀と同じである。刀は切るためにあるのだが、それを使う人の技によってよしあしはきまる。技が下手な人が、例え、いくら良い刀を持って追っても、その刀は何の働きもしない。只の鉄の棒切れに等しい。刀のそのもの自体の良し悪しではなく、所詮は、使い手の腕にとってその良しあしが決まるのであり、歌もこれと同じで、「言の葉の道ふみそむるあしもとに、こころうべき事にはあるける」と。その言葉の基本に「こころう」、通じていなくては本当の歌になならないと言っています。

 高尚が中村歌右衛門との対話の中で、現在の狂言の芸は「わざ」を主体にして演じられ、芸の情が何処へ忘れ去られている様に思える。しかし、昔、上手と云われた坂田藤十郎にしろ誰にしろ、その芸の中心は、やはり情であったのだが、それに付いてどう思われるかと問いかけているのです。その技を中心としたものは歌舞伎の世界だけではない、歌の世界にもそんな傾向が見られる。だから、自分も、今、情が主体となた歌をと思い、「歌のしるべ」を書いていると語っています。その最初に書いているのが、この「こゝろうべき事」であるのです。

 

 

 


歌のしるべ

2013-04-08 10:35:25 | Weblog

 さて、時間と云うもの、どうしてこんなにも早く、残り少なくなった老いの身を通り過ぎなくてもいいのではないかと、花のねぐらではないのですが、と気のねぐらを訪ね言って恨みごとの一つでも言ってやりたい気分にさせられる今日この頃です。
 私の身の回りには、もうあの業平をして嘆かせた桜も昨日の春の嵐で何処かへはしらねども流れ消えてしまいました。ただ、お宮の龍神池の面の西に吹き寄せられた花びらが風に身を委ねながら、あちへとおもうと、また、こちへと漂いながらって、我もまた「 春の名残をいかにとやせん」と、でも歌っているかのようです。

 さて、なんとか時の流れの中に友則の「静心」をどうにか取り戻した所ですが、再び、「宮内の今昔」に帰ろうかと思ったのですが、まあ、あまり急ぐこともないと思い、それならいっそ、あの高尚先生の中村歌右衛門と対談した時に語った「歌のしるべ」に付いて、また、また寄り道して、今少しその内容をお話ししたいと思います。

 なお、高尚は歌だけでなく、道のしるべ、文のしるべと3つのしるべ、即ち、道、歌、文に付いての案内書なのですが「三のしるべ」と云う本を著しております。


3日見ぬまの桜哉

2013-04-06 09:58:47 | Weblog

 “世の中は三日見ぬ間のさくらかな”と云う大島蓼三と云う人の句にあるそうでうが、私もちょっとお遊びと二日間ほどお江戸見学と洒落てみました。東京では、既に葉桜で、遅咲きの八重が美しい姿を見せ始めておりました。二日見ぬ間でしたが、ここ吉備津の桜もほろりほろりと、風もないのに、しきりに紀友則の世界を描き出しておりました。例年なら小学校の入学式頃なのですが。それも、今日の此の悪天候は静心をめちゃめちゃにぶっ壊しそうにでもしているかのように荒れ模様となっております。

 本当に「三日見ぬ間のさくらかな」です。もっとも、これは本当は桜が満開に成るときまでの早さを歌ったのだそうですが???でもこの二、三日経済界の動きはどうでしょうかね。これぞ、まさに「三日見ぬ間」の感でしょうかね。


見し夕ぐれの花はものかは

2013-04-03 08:39:44 | Weblog

 この歌碑に刻まれた文字は、二百年の歳月の間に、何時しか雨風に曝され消え失せて判読は不可能ですが、傍に立てられている、その説明板によると

  露ふかき 谷のさくらの 朝しめり  見し夕暮の花はものかは

 と云う歌です。
 
 この歌碑が立てられたのは文政十三年だとこの説明板にあります。しかし、矢尾牛骨の「宮内の今昔」によると、昨日の後藤松蔭の「鯉魚山下水潺湲 桜樹団々松樹間・・・」の歌が詠まれたのは文政二年となっているのです。
 しかし、どうも後藤松蔭たちがこの桜の苑を尋ねたのは、高尚の死後だったと思われます。高尚の死は天保十一年ですから。時間的なずれあります。そうしますと、この「文政」というのは本当は「弘化」ではなかったかと思うのですが???
 なお、蛇足ですが、松蔭と吉備の中山の山中にある細谷川畔のこの桜を尋ね酒を酌み交わした人に岡山の画家鳥越煙村がいたのですが、この人は弘化年間に活躍したと「岡山県人名辞典」には出ています。


春光一個小嵐山

2013-04-02 09:51:47 | Weblog

 かって、此の高尚の植した桜の苑に遊んだ後藤松蔭は詠っております。

         鯉魚山下水潺湲 
             桜樹団々松樹間
         看取天機雲錦片
         春光一箇小嵐山
 と。

 細谷を流れる瀬韻は「潺湲」、そうです。在るかないかのようなえもいわれぬ小さい小さい水音を立てながら岩間を滑り落ちております。その音はあたかもショパンの涙のように、シューベルトのささやきのように、ベートーベンの恋のように、まことに繊細な、p音を幾重にも重ねるように、後から後から生み出されおります。その音がそこらの木々の若芽に跳ね返されて渓の中に静かに消え残っており、まるで小人のオーケストラが奏でる交響曲を聞いているような雰囲気に包みこまれます。
 そして、周りの裸木の大木の枝間からは、ま青な四月の観客たちの盛んなる光の拍手が聞こえて来ます。そして、桜の花が辺りを桜色に包みこみます。まさに春光一箇です。

 こんな松蔭の詠んだ風景が、この吉備の中山に見ることが出来たのです。でも、今は、僅かに高尚の歌碑だけが往事を物語るかのように芳叢の中にひっそりと佇んであるだけです。


幻の細谷川の桜

2013-04-01 16:29:15 | Weblog

 吉備津の桜をご紹介しているのですが、今日は、今では幻となって、その面影すら何も残っていない桜の苑を紹介します。
 100本を越す桜がそこに植えられ、多くの名士が宮内の華やかな妓を伴って春の宮内を謳歌していたのです。でも、今はその辺りには高尚の桜は姿を消して一本も有りません。文化文政の時、細谷川のほとりに藤井高尚が植えた桜が有ったと云う事だけを伝える歌碑とその説明板がわずかに草むした山中にあるだけです。

        

 なお、高尚がこよなく愛した吉備の中山には、高尚の植えた桜谷は完全に消え去ってしまっていますが、吉備津彦命のご陵の傍にある、地元の人が「平安桜」と呼んで大層目出ている山桜が、今、満開にその美しい景色を空に描き出しています。