この歌碑に刻まれた文字は、二百年の歳月の間に、何時しか雨風に曝され消え失せて判読は不可能ですが、傍に立てられている、その説明板によると
露ふかき 谷のさくらの 朝しめり 見し夕暮の花はものかは
と云う歌です。
この歌碑が立てられたのは文政十三年だとこの説明板にあります。しかし、矢尾牛骨の「宮内の今昔」によると、昨日の後藤松蔭の「鯉魚山下水潺湲 桜樹団々松樹間・・・」の歌が詠まれたのは文政二年となっているのです。
しかし、どうも後藤松蔭たちがこの桜の苑を尋ねたのは、高尚の死後だったと思われます。高尚の死は天保十一年ですから。時間的なずれあります。そうしますと、この「文政」というのは本当は「弘化」ではなかったかと思うのですが???
なお、蛇足ですが、松蔭と吉備の中山の山中にある細谷川畔のこの桜を尋ね酒を酌み交わした人に岡山の画家鳥越煙村がいたのですが、この人は弘化年間に活躍したと「岡山県人名辞典」には出ています。
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