高尚は言います。
古今集の序には、貫之は、この「なにはづ」と「あさか山」の2首をうたの父ははのようだとして、歌詠む人は必ず呼んで参考にしなくてはいけないと言っていますが、その通りで「いみじきいさをのありけるゆえに、世の人とふとびしたひて、手ならふ人のはじめにもしけるなり」と。
ここにている「なにはづ」は
・難波津咲くやこの花冬ごもり今は春べと咲くやこの花
また、「あさか山」は
・安積香山影さへ見ゆる山の井の浅き心をわが思はなくに
この2首です。念のために
高尚は言います。
古今集の序には、貫之は、この「なにはづ」と「あさか山」の2首をうたの父ははのようだとして、歌詠む人は必ず呼んで参考にしなくてはいけないと言っていますが、その通りで「いみじきいさをのありけるゆえに、世の人とふとびしたひて、手ならふ人のはじめにもしけるなり」と。
ここにている「なにはづ」は
・難波津咲くやこの花冬ごもり今は春べと咲くやこの花
また、「あさか山」は
・安積香山影さへ見ゆる山の井の浅き心をわが思はなくに
この2首です。念のために
高尚は言います。
古今集の序には、貫之は、この「なにはづ」と「あさか山」の2首をうたの父ははのようだとして、歌詠む人は必ず呼んで参考にしなくてはいけないと言っていますが、その通りで「いみじきいさをのありけるゆえに、世の人とふとびしたひて、手ならふ人のはじめにもしけるなり」と。
ここにている「なにはづ」は
・難波津咲くやこの花冬ごもり今は春べと咲くやこの花
また、「あさか山」は
・安積香山影さへ見ゆる山の井の浅き心をわが思はなくに
この2首です。念のために