古今集の序の終わり部分に、紀貫之は人麻呂の名はだしているのですが赤人の名が出てないのはと云うことに付いて書いております。
なお、この序にある「ならの御時よりぞひろまれりにける」、即ち、万葉集に付いて論じている中に書いております。 “人まらは赤人がかみにたたむことかたく、、赤人は、人まろがしもにたたむことかたくなむありける”とあります。要するに、貫之は「人まろは赤人の上には位置付けられないし、また、赤人は人まろのしたに位置付けることも出来ない。どちらが秀いでているか優劣はつけがたい。」というのです。一方、又、この序の一番最後に、再び
“人まろなくなりにたれど、歌の事とどまれるかな”と書かれて、赤人の名は出ていません。それは可笑しいのではと云うことに付いての高尚の論です。高尚はこの事に付いて
「ここに山部ノ大人の事見えざるは、柿本ノ大人をいひて、かの大人をばいはでこめたり。さるはふたりをいひては、文のさまくだくだしくわろくなればなり。」と見えます。柿本ノ大人を万葉の象徴として入れたのであって二人並べて書くと文章の体裁が整わないからだと貫之を援護しています。
それに続いて、でも、自分は、「ふたりの大人をいつもならべていふは、見ん人のこころうべきやうをむねとして」、貫之のように、文の体裁などは全然考慮しなくて書いていますと言っています。
又、高尚は続けて自画自賛しております。
「古今集の序は昔から沢山の人に読まれていますが、自分みたいに深く読んでいる人はいないと思うよ。」と。