私の町 吉備津

藤井高尚って知っている??今、彼の著書[歌のしるべ]を紹介しております。

この時の年号は「文政」と呼ばれていました。

2013-03-03 10:57:19 | Weblog

 「中村歌六」にしろ「中村友吉」にしろ宮内芝居に出演した浪速の名優です。時は文政(1818~1830)年間です。寛政の改革が終焉してから、世の中は、再び、華美で華やかさが謳歌かされた時代です。化政時代です。倹約は敵だったのです。それに連れられて芝居人気も相当高まったようです。宮内の芝居を記録したものを紐解いてみますと、この時代には宮内芝居は春夏の吉備津神社の大祭の時だけではなく年間に数回も開かれたと云われております。
 その文政の何年かは書かれてないのですが、とにかく九月二十七日と云いますから、当然、これは吉備津神社の秋の大祭期間です。高尚は何時もの通り真野竹堂に宛てた手紙に書いています。その文面を「そげえなもなあ どうでもええ」と、おっしゃられるだろうとは思いますが、馬鹿の一つ覚えよろしく書いてみます。

 「・・・最早川は勿論山も遠くは難参申聞候処・・・・・桟敷は従此方為圍申可二夕御差合候はば三夕目被成べく候・・・・・

 と書かれています。この中にありますように「桟敷」と云いますから、当時から、ここでも客席は枡席だったのです。現在の相撲見物と同じような客席だったようです。それを確保しておくからご出席くださいと云うお誘いの手紙なのです。
 まあ何回も書く様ですが、高尚と竹堂の家は僅か1丁も離れてはいない至近距離にあったのですが、ご丁寧にも毎度手紙のやり取りでお互いが連絡し合ったのでしょう。それが又当時の社会の、特に、宮内と云う山陽道随一の遊興の町にありながら、その一方でこのような雅があったのです。本当に不可思議な町だったのです。