私の町 吉備津

藤井高尚って知っている??今、彼の著書[歌のしるべ]を紹介しております。

おおやけより鹿島・・・・

2011-07-14 12:36:36 | Weblog

 十月八日になりますと、地震の回数もその規模も落ち着き、丁度雨も振り出します。「雨にも風にもなれば、地震せぬといへば人々よろこぶ」と。そんな言い伝えがあったのでしょうか???人々が少しの情報で一喜一憂していた様子が伺われます。

 この日、幕府は地震鎮静祈願のために、次の八社に寺社奉行衆を派遣しています。その神社は、鹿島、香取両宮、伊豆権現、箱根、三島、鶴岡八幡、富士浅間社、豊前国宇佐八幡宮です。どうしてこの八社に地震沈静祈願の使者を派遣したのかと云う理由は分かりません。
 でも、この内、鹿島神社については、この神様付近は、昔から「大地震は起らない」と云われているのです。その理由は神社の説明によりますと、この神社の側に「要石」は有り、この石は丸くて周囲が三尺、地上に七八寸も出ており、その頂に凹んでいて、此の石の下に大魚が住んでいるのだそうです。そして、その頭に、どうしてかは分からないのですが、くさびが打ち込んであり、自由に動き回ることが出来ないために地震がないと言うのです。そんなことがらじしんお神様なのですから、その神様にお参りするのは当然だと思われます。
 この鹿島神社のある所は、茨城県鹿島町に有りますが、今回の東北地震ではそんなに大揺れはなかったのでしょうか、誰かその辺りの情報をお持ちのお方はおられませんか。知っておられたら教えてほしいのですが。では、香取は、どうしてかと云われてもその理由が不明ですが、鹿島の神様と同じで武勇の神様です。だから、ついでに、香取にもと云う思いは否めないのですが????

 なお、伊豆権現、箱根、三嶋、鶴岡八幡宮、富士浅間社は、多分、何か富士山の噴火と関わりがありそうな感じが匂うのですが。よくは分かりません。また、遠く宇佐八幡もその理由は分かりません。国家存亡の危機と思って、この神様にもと思ったのでしょうか。九州迄使者をご丁寧に派遣しているのです。

 まだ江戸時代には、このように神仏にその沈静を祈願すると云うことが、公的行事として大々的に行われていたのですね。管さんもちょっと福島の原発を訪ねる前に、地震の神さんである、この鹿島にお参りしなかったから、「ばちがあったって」、今日のような管下ろしの渦の中に巻き込まれたのではないでしょうかね。残念でしたね。


地震火事方向付の版下かきおり

2011-07-13 10:40:15 | Weblog

 この「なゐの日並」の作者笠亭仙果先生は、一体どうして、こうも江戸の町の方々の地震の被害について調べていたのだろうかと云う疑問を持ちながら、書いてきたのですが、其の七日の日記を見て、始めてその理由が分かりました、この先生、実は、瓦板の下作者だったのです。

 「品川やのあつらへ地震火事方向付の版下かきおり」

 とありました。そうでしょう。それでなかったら、このように、あちらこちら、いつ地震が起きるかも分からないような危険がいっぱいあるだろう江戸の町中に出向くはずは有りません。そんな意味からも、鴨長明程有名人として名が知られてない理由だったのかもしれません。私は、その書いた内容や構成された言語表現というか文章から云っても、もう少し一般に、仙果先生の名が知られていてもよかりそうだと思っていますが。そなん職業的な理由から記録していると云うだけで、その存在が低く見られているのには少々かわいそうな気もしています。面白い記録が随所にうかがわれてとても興味深い本でないかと思います。

 まあそんなことは兎も角も、地震発生以後六日が経過しているにもかかわらず、この日も、また、「よいい(酉中刻)いと大きなるが一つゆりつ。さりとて二日のとはくらぶべくもあらず」とあります。相変わらず余震が続いているのです。この日にも数回の余震があったと書いております。また、「こよひもなほかきねの野宿」だったようです。この日の地震でそれまで潰れないでいた家も潰れたと云う情報も人々の間に広まっているので、そんな噂を聞いただけで、人々は安心して我が家で眠れないのは当たりまへだと思われます。


歯の根あはず

2011-07-12 11:07:44 | Weblog

 六日の夜になり「こよひもよべのごとく垣根に露宿」とありますから、まだ、その余震が恐ろしくて、家の中に入っては寝てはいなかったのでしょう。垣根の傍に作った露を凌ぐ程度の所に寝起きしていたのでしょうか。暁方になって、今夜も「よべよりすこし大なるが一震ふりつ」。驚いて飛び起き「胸とどろき身ふるはれて歯の根あはず」

 地震発生後五日です。食糧や水などは、ここでは、まだ、賄えていたのでしょうか、その欠乏の有無は書いていない所を見ると、そんなぬ飢えて困っている云う状態でななかったことが、この文章からは伺われます。それだけ被害が少なかったのかもしれませんが。水に関しては、井戸が方々に掘られていてあったのでしょうから、現代の水道設備とは異なって、自給できたのでしょう。丁度この日は仙果先生の伯母さんの命日だったのでしょうか、法要はできなかったようですが、「もなかまんじゅう少し奉る」とありますから、何処かのお店から買って来たのではないと思えますから、家に残っていたわずかなお供えぐらいはできる余裕があったのでしょうか。
 場所によっては、深川付近では、押し込みがあったのですが、ここではそんな騒動は起きていはいなかったようです。


伊勢両宮へ祈りの為

2011-07-11 10:06:48 | Weblog

 地震発生後五日目ともなりますと、街の被害状況も次第に明らかになり、幕府の動きも分かるようになったのでしょうか、仙果先生の「なゐの日並」の中にもそれらしい記事を見ることが出来ます。

 「伊勢両宮へ祈りの為、京都所司代へつり物宿次にて発遣のよし」

 と書かれています。まずは、伊勢神宮へ、地震の鎮静の為の祈願の使いを遣わしています。これは、現在では、政府は行政措置として行われてはいないのですが、まだ江戸の時代には行われていたと云うことが分かります。それを、唯、前近代的思考だ、誠に古臭い、取るに耐えないものだと一概に撥ね退けてしまうのもどうでしょうかね。
 今回の東北大地震時には、皇居あたりでは、報道はないのですが、何かそのような災害時の、昔からの宮中行事は執り行われなかったのでしょうか。一つの伝統として合ってもいいのではと思われますが、いかがなものでしょうかね。

 一寸話題は違うのですが、昨夜NHKで放映されていた「地震時の液状化現象」についてですが、三、四階の鉄筋コンクリートの家屋が津波に押し流され横倒しになっていた映像を目にしたのですが、こんなとても信じられないような現象が、今回の超大地震では起っていたと云うことが分かりました。これも地震による液状化現象によるのだと報じられていますた。
 此の液状化現象について、仙果先生も記していたと、前にこのブログで書いたのですが、これほどひどい現象をもたらすのかと、大変驚きながら見ました。
 仙果先生が書いている液状化の文章を、もう一度、ここに記しておきますので、鉄筋のビルをも押し倒すその破壊力の激しさを、その恐ろしさと一緒に、再度、お読みいただければと思います。

  「・・・あたりの地少しさけ、白気吹出たりと云。こは砂か。そのわれたるあと、のちにふたがりぬとぞ。・・・」
 これは、よくその正体は分からないのですが「白気南にわたりし」とも、また、「西北の空より馬のごときもの南の飛行したり」などと記していますが。これなどもやはり、液状化で地中の水分が気体となって地下に有る砂が一緒に土地に走った裂け目から列になって吹き出して行った様子を見たからではないでしょうかと、昨夜の放送から思い付きました。
 あの千楯先生がお書きになた京都の地震にもその方向が書いてありましたが、やはり、この「馬のよなものが」と書いている仙果先生のものと同じものではないでしょうか。白気が発生し、出来た亀裂から順次噴き出して、あたかも、馬が空を駆けり行くように見えたのではないかと思われます。


匹夫の志奪ひがたし

2011-07-10 10:24:30 | Weblog

 「腹いせにすべしと」二百人ばかりで押し寄せた窮民共に対して、その家の者は、てんでに鉄砲や弓を以てそれに対処しようとしたのです。しかし、すんででの所で、あわや騒動になるかと思われたその時でした。この屋の主人が、

 「今つくづくおもへば匹夫の志奪ひがたし。争ふとも必勝はえがたげなり。ゆりつぶされ火もてやかれたりとおもひなして、渠等が心にまかせておけ」
 
 と云って、家の者たちを押しとどめて彼らの為すがままにさせていたのだそうです。すると、その押し入った二百人もの者たちは、てんでに、その家の蔵を開けて、そこに有った穀物と言いますからお米でしょうか、それを残らず奪って「いにけり」と。書いております。要するに、歴史の教科書などに出てくる江戸時代の都会で起きた「打ちこわし」と、他ならない出来事だったのだと云うのです。

 此の事件が大きく「深川辺りの狼藉」と伝わったのだろうと云うのです。現在でも、このような災害時に、他の諸外国で見られるような、何処でもいい、手辺り次第にそれも無差別な乱暴狼藉ではないのです。ある程度その事件の背景には、このような、何らかの理由があって発生するのだと云うことが分かります。この時とばかりに狼藉を働く者はいなかったと云うのが正しいのかもしれません。
 今回の東北地方の大震災の時でも、震災直後の見事なばかりの社会秩序の良さ、そうです、このような大惨事の災害時にでも、人々の徹底した冷静な行動が見られる国は、世界でも珍しいと、海外のほとんどの国の報道陣の間で、大きく話題になたと聞いていますが、日本の歴史を見ると、皆無とは云われないのかもしれませんが、そのような考え方は、既に、平安の世の中から、そのような非常時の当り前な行動となって人々の間に定着していたのではないかと思われます。その辺りにも、また、世界にはない日本人だけが持っている特色だと言えるのではないでしょうかか?????

 なお、狼藉とは、目的も手段も無く、てんでバラバラに手当たり次第に繰り広げられる無秩序な暴力行為の事を言います。また、「渠」と云う字は<かれ)と読みます。
 蛇足ですがちょっとだけ。「いらんことたあ せんでもえんじゃ。、そげんなことあ でえでもしっとるんじゃあ」と、筆敬先生からお叱りを受けるかもしれませんが。


狼藉のもの徘徊する風説なり

2011-07-09 18:28:54 | Weblog

 地震発生後五日目になります。巷には、六日になっても、相変わらず地震火災場所づけの辻売りが沢山売られていたようです。それらの情報でありましょうか、「深川辺りには狼藉を働く者がおると云う風説が立っているとの事。早速、先生、その風説の真意を確かめております。この大変事の時にです。「何と云う、わが先生の悠長なこと」をとも思うのですが、丁寧にその真相を書き記しています。先生の家は、それほどの大した被害もなかったからでしょうか、生来のもの好きなたちと云うこともあって、もしかしたら、鴨長明先生を、これ又、意識して書かれたのかもしれないと推測しております。それにしても、この先生。その地震について。大阪などに居る知人に、事細かく、辻売りなどを添えて送っています。相当な風流人だったのではと思えるのですが。
 こんな面白い人が、昔から日本には居たのですね。文化の深さかもしれませんが。兎に角、面白い記述ですので、それを書写しておきます。

 「世の常の狼藉には非ず。まずしきもののっ小家どもみな潰れたる中に、富める旗本某の家のみ、つつがなし。家もなくしたずきをも失ひたる窮民ども、きのふけふものもくはず、うゑつかれてくるしきまゝ、五人七人かたらひあわせ、かの武家に米銭合力をねがう。家の大人等うけひかず。うれい訴ふる事数度、のちにはいたくしかりこらしておひ返しければ、あまたの窮民ふかく怨み、いでやわれわれ餓死すべくば、慳貪武士の家を打ちくだきて腹いせにすべしと、二百人ばかり党をむすび、棒鍬やうのものもちておしよせたり。」

 と書いております、さて、この結末はいかになりましょうや?

 例によって此の続きは、また明日にでも。


焼場方向辻売

2011-07-08 10:24:30 | Weblog

 此の大震災の中で、仙果先生は難波に手紙を出そうと、飛脚問屋でその値段を尋ねると
 「正六日限書状一通三匁という」
 だと云ったそうです。
 これもよく分からないのですが「正六日限」と云うのですから、その日が地震発生後の五日でしたから、明日までは今のところ、書状一通につき三匁と云われたのだそうです。三匁と云うのがどのくらいな値段だかよく分からないのですが、一文が1匁だとすると約60円ぐらいになると思いますから、そんない高くはなかったようです。でも五日限と云うのが面白いと思います。六日以降の値段は分からないと云うのです。何もかも当時の江戸では高騰しているのですからです。

 また、この時、仙果先生も「焼場方向辻売」を買い求めています。これはこの地震で焼きだされた街々の様子を書いた瓦板だろプと思われますが、「くわしきさまに、しるせるもみゆれど、みだり事おほし」と、大方の瓦板がいい加減なもので、その為に、先生は「二三種かう」と書いております。
 先にあげた浅草寺の九輪のまがっている絵も、辻売りの瓦板なのです。より正確な情報を得ようとすれば、数種の辻売りを買う必要があったらしいと云う事がわかります。

 「毎日々々凶便のみきゝ、心きももつくるようなり」と書かれています。地震発生から4日も経っていると云うのに、落ち着く暇もないと泣き言が並べてあります

 


当百とは

2011-07-07 13:32:50 | Weblog

 久しぶりに筆敬氏から例の通りのメールを頂きました。

 「<当百>とけえてあったが、ありゃあ何じゃ」
 といわれるのです。「何だ。こんなこともしらんのんか」と、聊か我が自慢顔がのぞきます。<当百>なんて何の事だか、興味ないお方にはてんで見当もたたない事だと思います。
 一寸この写真を見て下さい。天保通宝の裏面です。この中に<当百>と云う字が見えます。

                 

 当百とは、天保通宝の別名です。あの一文銭、寛永通宝100枚に当たると云う意味で。百文に値打ちがあると云うので、当時は、天保通宝と云わないで、当百と云っていたのでした。

  ということは、仙果先生、自分の手拭を拾って持ってきてくれた子供に天保通宝一枚ぐらい、今のお金にすると、いくらになりましょうか。1000円ぐらいにはなるのでしょうか???与えればよかったと後で悔やんだと云うのです。

 なお、この天保通宝には、その含まれている銅の値が100文にもならないために、実際には、それより安価で取引されたと云われています。その為、作ればもうかることうけあいでしたから、財政難にあえいだいた多くの藩では、自らの藩で計画的に、しかも、積極的に、この贋天保通宝を大量に造幣したともいわれています。
 

 どうですか。これは偽ドル札を作ったあの北朝鮮の政府のやり方とよく似ていますよね。世界史的に見れば、日本だけではなく、過去には、此の国を挙げての贋金つくりの政策は、ヨーロッパの国々でも盛んに行われていたと云われています。こんな歴史的な経緯をたどれば、一概に、現在の北朝鮮だけを「悪の根源」だと云って非難することも出来ないのではないでしょうかね。良い悪いは別にして、そんなことを思うのですが。


十ばかりの坊主児

2011-07-06 11:18:05 | Weblog

 「なゐの日並」こは、なん珍しい地震の最中の出来事が次から次へと書いて有ります。そこら辺りが大変面白く、吉備とは聊かも関係ないのですが、もうしばらく、この「なゐの日並」を追ってみます。

 昨日も見てきたように、神社仏閣は不思議なのですが、その地震による壊れようが、一般の家々よりかなり少なかったり、皆無だったりしたと云うのです。その例を2,3上げて書いています。その内の一つ「神田の明神も、高き所なれどさわりなしとぞきく」と、あります。その付近の民家など壊滅状態だったにもかかわらず、「触りなし」だったと云うのです。そんな状態のお社を拝み、「大なるめぐみをよろこび申すに、今も涙さしぐみて嬉し」と書いています。たった今から150年の昔に過ぎませんが、まだまだ、神仏に対する信仰が、日本人には至って強かったと云う事が分かります。それがいまではどうでしょうか。神仏との係りは、正月と盆の行事だけのように感じられますが、どうでしょうかね。これでいいのでしょうかね。信じなくてもいいのですが、厚く敬うと云う行為、そうです信仰が、日本人の生活の中にもっとあっていいのではないでしょうか???
 まあそれは兎も角として、仙果先生その足で自宅へ向かわれます。すると、そこにも、又、大変なこの非常時にも関わらず珍しい事件に出くわします。それを次のように書いています。

 「十ばかりの袖乞の坊主児、わが手拭わすれおきしをひろひ、旦那のには侍らずやともて来る。このわらんべの志感ずるにもあまりあり。其手拭やがてあたへてもよけれど、志もどくにも似たれば、よくこそとうけ取、銭聊あたふるに、いと嬉しとおしいだく。後におもふに、もせめて当百の一ひらもあたふべかりしをと、心はづかしくほいなし。・・・・」

  このような非常の時に、まだ年端も行かない年少の少年でしょうか、たった手拭1枚ですが、人の持つ善意と云うか優しさに出合っています。そんな善意は、現代でもまだ生きていたのです。被害にあったのはお互い様だ。助け合うのが人として当たり前の行為だと、懸命に働いた多くの人がいたと新聞等で報じっれていました。それが日本の美徳だと報じた外国のメディアも沢山あったと聞いています。
 この仙果先生の書かれているように、このような行為は今回だけではありません、神戸の時も、150年も前の江戸でも平然と行われていたのです。今更大仰に取り上げられるような美徳でもなんでもありません、日本人なら普通の人が普通に持つ心であるのだと思いました。どうでしょうか。ご感想をお知らせいただければと思います。宜しく。


浅草寺の塔の九輪が曲がる 

2011-07-05 10:11:36 | Weblog

                           

 この写真、何かお分かりですか。安政の大地震の際、浅草寺五重塔の被害についての記述が色々の所で見られます。其の一つがこの絵なのです。塔そのものには異常はなかったのですが、絵のように九輪が大きく左に向いて傾いて書かれています。実際は、これほどはひどくはなかったらしいのですが、これは瓦板に載った絵なので、このように大仰に描かれたものだと思われます。 この時に傾いた浅草寺の九輪について、仙果先生は、「なゐの日並」に、次のように書いておられます。
 「浅草寺の塔の九輪、西の方へいたく曲がりたるを見れば、げに、地震のみの所為にはあらじ」
 と。

 この絵らも分かるように、塔そのものはびくともしてないのに、ただその上に据えられた九輪が大層西へ傾いていると云うのです。この絵からも十分そのひどさが伺われます。
 これを見て、人々は、この九輪が曲がったのは、果たして、地震だけで傾いたのだろうかと不思議がったと云うのです。ということは、何か目に見えない神の力か何かが加わって、塔その物を傾かす代わりに、ただ九輪を大きく傾かせたのだろうと、人々も言っていたのだそうです。それが「所為」<セイ>ではないと云わしめたのだと思われます。

 それが神の仕業ではないかと暗示している文章がこの後に見られます。

 「・・・・・神明町は西側大かたつぶれ、神明前三島町あたりも、潰家いとおほし。しかるに神明のみやゐは、本社末社御門鳥居もつつがましまさずと見ゆるに、たふとさ限りなく、神主も無事なり。・・・」

 その理由は分からないのですが、江戸の神社仏閣はその被害が少なかったと云われています。

 

 またこの傾いた9輪を、あの広重も描いています。瓦板とは少々その趣を違えていますが、御覧ください。あまりはっきりとは画いてはいませんが、それでもやはり少々傾いたようにえがかれているでしょう。

    


西北の空より馬のごときもの南の方へ飛行したり

2011-07-03 10:44:39 | Weblog

 笠亭仙果先生は、この地震が起きて江戸の町を方々訪ねて、その被害状況を書きとめられています。その中に、地震時に発生した奇妙な現象を記しています。

 「あたりの地少しさけ、白気吹出たりと云。これは砂か。このわれたるあと、のちにふたがりぬとぞ」

 と。これは、現在、「液状化」と呼ばれる現象ではないでしょうか。白気と云うのは、吹き出た砂に含まれている水が圧力か何かで水蒸気になって砂と一緒に吹き出たかのがそう見えたのだと思います。また

 「或人云、大ゆりのさいちゅう、西北の空より馬のごときもの南の方へ飛行したりと、又或人は白気の南へわたりしともいふ」

 とあります。これについて、先に挙げた千楯先生の文政13年の京都大地震の時の「戌亥の方より辰巳の方へ向け震ひし様也」というのと同じではないでしょうか、今回の3・11の地震ではそなん地震の方向についての報告はなかったように思われますが、こんな地震時にそのゆれの方向が分かるなんてことがあるのでしょうかね。

 この地震が起きた時仙果先生は、その2階で書き物をしておったのですが、発生と同時に「のぼりばしご」といいますから、階段でしょうが転がるように駆け降りたのです。その時の感じを

 「天地も崩るゝように響き渡り、身も上下にあげおろしせらるゝようなれり」
 とありますから、その時の振動は上下振動で、白気が南へ流れるなどと云った、地震に方向生があるようには書いていません。そんなことってあるのでしょうかね。誰か、ご存じではありませんか?

 

 


めでたしめでたしと寿ぐ

2011-07-02 09:00:59 | Weblog

 仙果先生の「なゐの日並」には、この地震についての文を読んでいます、と

 「未刻ごろ、赤羽根にゆくとて、まづ角久をとぶらう。ふみや町河岸千匹屋はつぶれ人死せりよいうに、この家は新造ながらさらに破れもなく、土蔵さへ聊のそこなひなし、主人、人と酒うちのみおり。めでたしめでたしと寿ぐに、むこうなる版木の蔵損じたりとなげく・・・・」

 こんな文章に出くわします。自分の家の被害は大したことがないが、仙果先生など文筆家の文章の摺り屋だったのでしょうか、被害に遭わなかったと云って、めでたい目出たいと祝い酒を飲んでいたのでした。それでも、版木の蔵が少し壊れたのは悔しい事だと嘆いていたと云うのです。
それに対して、「欲の限りなき也とあざむ」と、あります。
 
 こんな人の有様を見て、なんて人間なんて欲深い生き物だろうかと、あきれ果てると書いています。でも、よく考えてみるとこれが普通の人ではないでしょうか。人のするあほらしさを、それとなく「あざむ」という言葉を使って書き現わしています。
 しかも、この家の番頭の父親が崩れた家に押しつぶされて、また、従業員の妻もその子供も、圧死しているのにもかかわらず、酒を飲んで目出たいと寿いでいたのだそうです。


勝計すべからず

2011-07-01 10:16:41 | Weblog

 地震発生後五日もたちますと、はやくも江戸の町々には、色々なお店が開店しています。その様子を仙果先生は、次のように記しています。

 「けふより湯屋髪結床そのほかの商店、よわたりのなるほどなかばみせをひらく。きのうよりすでに大道の食物商人は、つねに十倍してうる。商人ならぬも心さときは、老少も男女もいはず。おもひおもひにたべもの調じて道傍にたち、あやしのもちぐわし(?)、すしみせ、かんざけの類ひ勝計すべからず」

 とあります。「あやしのもちぐわし」というのはどんな意味かよく分かりませんが、どうもあやしげなたべものを売りつけていたようです。「勝計」というのは類が多いと云う意味ですが、お店が出来そうな家は、早くも、店を開け、また、道端で、すしや酒をうっているところは数限りなくあったのだそうです。戦後の闇市のような様子だったのではにでしょうか。
 でも、道端で食べ物を売る店は値段が平生の十倍と驚くほどの高値が付けられていたのです。それにも拘らず需要が多く、いくらでも売れると云うので、商人たちは、物があっても「おしみてうらず」という有様でした。
 この点は、今回の東北地震後の有様とは少々異なる対応が見られたようです。その有様を仙果先生は又次のように論じておられます。

 「かかる天変にあひ。あやうき命をひろふと、はや食欲心熾盛して奸商利にはしり、かかる折、大利を得ずば、ようように衰微する世の中に、何をもてゆくゆく銭渇を凌がんと、一時に利を得んとするさま、いといとあぢきなくあさましなどはおろかなり」

 これが人の世の常で人情もなにもあったものではありません。己がよければそれでよし、人の事などにかまけておれようかという、誠に、あぢきない世の中になっている事を嘆いておられるのです。お互いさまだ。みんなでこの災難を凌いで行こうなどといった共同の精神は、ひとかけらも見えない安政時代の江戸だったのでしょうか。そんな世相を、唯、「おろかなり」と、言いきっています。