仙果先生の「なゐの日並」には、この地震についての文を読んでいます、と
「未刻ごろ、赤羽根にゆくとて、まづ角久をとぶらう。ふみや町河岸千匹屋はつぶれ人死せりよいうに、この家は新造ながらさらに破れもなく、土蔵さへ聊のそこなひなし、主人、人と酒うちのみおり。めでたしめでたしと寿ぐに、むこうなる版木の蔵損じたりとなげく・・・・」
こんな文章に出くわします。自分の家の被害は大したことがないが、仙果先生など文筆家の文章の摺り屋だったのでしょうか、被害に遭わなかったと云って、めでたい目出たいと祝い酒を飲んでいたのでした。それでも、版木の蔵が少し壊れたのは悔しい事だと嘆いていたと云うのです。
それに対して、「欲の限りなき也とあざむ」と、あります。
こんな人の有様を見て、なんて人間なんて欲深い生き物だろうかと、あきれ果てると書いています。でも、よく考えてみるとこれが普通の人ではないでしょうか。人のするあほらしさを、それとなく「あざむ」という言葉を使って書き現わしています。
しかも、この家の番頭の父親が崩れた家に押しつぶされて、また、従業員の妻もその子供も、圧死しているのにもかかわらず、酒を飲んで目出たいと寿いでいたのだそうです。