私の町 吉備津

藤井高尚って知っている??今、彼の著書[歌のしるべ]を紹介しております。

三月に安全唱えし識者らは

2011-06-14 13:25:55 | Weblog

            

 
 山崩れか何かよく分からないのですが、兎に角、人が二人も、崩れてきた土砂にでしょうか、一人は上半身を、その横にいる一人は体が半分、埋もれています。そんな地震直後の有様をリアルに写し取っています。その後どうなったのかは分かりません。更に崩壊が続き、此の二人は完全に埋め尽くされたのかもしれません。左側の人なんかは大きな岩に直撃されていますから、頭んな潰されて即死の状態だと思われます。右の人は助かったでしょうかね。恐らく、必死に脱出を試みるも、その後に落ちてきた沢山の大小の土砂に埋もれてしまったのではないかと、この図からは読む事が出来ます。
 なお、この図は、寛文2年の京都大地震の様子を、30年後の元禄5年の年代記に書かれているものですが、後の解説文「是も先にひとしきことを記せし所の画なれば、因によりてここに写す」、を読んでみると、右にいる半分埋もれている人も、結局、助からなかったのではないかと云う風に読み取れるのではないかと、私は想像しています。

 30年たった後も、猶、当時の悲惨さが言い伝えられたと云う事は、それほど、寛文の京師大震災の事は大災害だったと云う事が分かります。
 その169年後、再び、京都を地震は容赦なく再度襲います。その時の様子を、今度は、城戸千楯先生が見事な文章で臨場感いっぱいに書き留めてくれたのです。

 それは兎も角として、神戸しかり、新潟しかり、外国の中国、スマトラ、ニュージランドしかり、更に、今回の東北地方しかりの大震災は、勿論、地震による多数の死者を伴った災害ですが、太古の昔から、時や場所を選ばず、所々で繰り返して発生しています。地震だけではありません、諸々な天辺地変に、為す術を知らず、ただ、右往左往するだけの人間って、本当に万物の霊長なんて威張っていていいものでしょうか。それこそ、人間のそんな横暴さに対する神からの天罰ではないのでしょうか。

 

 まあそれはそうとして、朝日歌壇5月16日に載っていた名古屋市の諏訪さんのお読みになった歌を、もう一度、ここに書いておきます。みなさんは、地震発生後3ヶ月経った今、どう御読みでしょうか。

 

           三月に 安全唱えし 識者らは
                     いずこに消えしか 泡のごとくに


地震の記録

2011-06-12 09:59:12 | Weblog

 千楯先生に付いて、吉備との係りは、ただ、藤井高尚先生と朋友関係にあっただけを頼りにして、その著書「紙魚室雑記」に書かれている地震の話を、例に漏れず長々と書いてきたのですが、「もうこの辺で」としたのですが、またまた、例の筆敬氏から、御親切なメールです。

 「何処から引っ張りでえたんか知らんが、もちいたあみじこうに、ようわかるように かきゃあええもんを、ああじゃあねえこうじゃあねえと いらんことばあ かきゃぁがって、せえから どうなるんかとおもようたら もう、おしめえにするんか」

 とお叱りです。彼は、その後に、御丁寧にも、私が書いた文政13年の地震よりも、百五十六年も前にあった「寛文二年の京都大地震の図」というのがあるから「みてみい、ちいたあ 参考ぐれえにゃあ ならあへんかのう」と、教えてくださいます。その本は「尚古造紙挿」というのだそうです。「インターメットで調べてみろ、早大かどこかにある筈じゃ」と。

 早速調べてみました。ありました。それを載せておきます。(細部まで鮮明にとやや大きめに掲載してみました)
                  

 地震による人々のうろたえ、慌てふためく様子がよく分かる図ですが、、壁などが破れているものの、建物などまだしっかりとしており、そんなに大地震ではないようにこの図からは判断できます。しかし、細かく一つ一つを取り出して、よく見ると、人はぶっ倒れ、歩くにもままならないような様子も読み取れます。この図に描かれている倒れている2人など6人の人物から、それぞれに地震の恐怖を感じさせられます。此の絵からだと、震度5程度の地震ではないようです。それ以上のこれも神戸級の大地震だったようです。中央の御婦人は脊負っている子供を落とすまいと必死になって支えようとしていますが、その声までも聞こえそうですね。
 でも、よく書かれてはいますが、言わずもがなですが、現代の写真の比ではありませんね。そこら辺りに現代の報道写真の役割があるように思われます
 

 

 

 


城戸千楯の文政京都地震も長くなりました

2011-06-11 17:08:02 | Weblog

 千楯先生は、この文政の京都大地震について、どの地区の被害が大きかったという事につても記録しています。それを最後として、京都の地震に付いても大層長くなりましたが、終わりにします。

 「此の安政13年4月二十三日の地震の被害に付いて、大津は京都の3歩、淀は2歩、伏見や亀山は京都と同じ程度、鞍馬・宇治黄檗は至って軽い。六地蔵は大荒れ、比良高島辺りでは一度普通より少し大きめのゆれがあった程度で、子供に至っては気が付かなかった者が多い。彦根、大阪、伊賀、大和などもほとんどゆれなかった。
 此の事から考えてみれば、此の十三日のゆれは京都を中心とした狭い範囲の余震だったと思われる」

 このように書き残しています。最後に「まことや」とありますが。本当にそんな狭い範囲のものなのだったのだろうかと疑っています。

 考えてみると、自分の身の回りで起きた自然現象である「地震」に付いて、このように詳しく細かい部分に渡って、戌亥から辰巳にかけて起きたと云う、その方向まで、記録しているというのは、しかも、彼は国文学者です。本当に珍しいものではないでしょうか。

 それから、今朝の新聞に出ていたのですが、三月十一日の東北地方を襲った地震についての報告がありましたが、二,三日間は被害に合った人々は、屋内で生活できないで、寒さを凌いで道路にて寝起きしたとありましたが、千楯先生も、此の中で「今宵も大道にて夜を明かす」と書かれていますが、災害時の人の心理は、何処に置いても、時代を超えて同じ行動は見られるのだと感心して読みました。

 最後になりましたが、早く、東北地方の人々の安心して暮らせる日の来たらんことを祈りながらの、千楯先生の地震について、書き終わりにします。


時の記念日です

2011-06-10 11:21:38 | Weblog

 今朝、ふと目にした新聞記事によると、今日は「時の記念日」だそうです。何故、今日が?と云う疑問が浮かんだので、早速、インターネットと云う誠に便利な機械がありまして、それで調べたら、即座に、その疑問が解けました。何て便利な機械でしょうかね。コンピューターって道具は。
 それによりますと、「時の記念日」と云うのは、日本人が、それまで時間に対してあまりにもルーズだったものですから、時間を守って生活する習慣を身につけさせるために。この日を制定したのだと書いてありました。なんでもかんでも、欧米先進国に追いつこうとしていた時代です。欧米張に、早く日本人も、此の時間を頭に入れた生活が出来るように、習慣化させたいという願いから、1920年に、東京天文台と生活改善同盟と云うへんてこりんな会いによって、「この日を制定した」と、説明がしてありました。
 そして、なぜ、六月十日にしたかと云う理由についても書いてありました。何か日本書紀に有るのだそうです。難しい漢字が並べてありますが、それは飛ばして、その解説をしているのを拾ってみました。
 「天智天皇が、始めて、漏尅(ろうこく)を使って、候時(とき)を知らした」のが、たまたま、六月十日だったという簡単な理由からだったようです。(丁卯の朔、辛卯と出ています) 

 こんな日本でも、文明開化の波によって、明治の御代になると、特権階級の人たちの間では西洋式の時計が使われていたのだそうです。それが、この1920年の時の記念日の制定に伴って、時計が、沢山、欧米から輸入されて、日本の一般の家庭にも広く普及して、使われるようになったのだそうです。
 そんな大正時代のものだと思われますアメリカ製の置き時計(WTERBURY CLOCK)を私も持っています。自慢になる様なものではないのかももしれませんが、大切に保存しています。ちょっとゼンマイを巻いて動かしたいのですが、生憎とゼンマイを巻く道具がないのです。

  時の記念日には何時も取りだして、何時も12時6分前の此の時計を机の上に飾っています。当時は相当高価なものだったのではと思っていますが?? 
         高さ12cm、横9cm、奥行き7cm

 どうでもいいような物ですが。なかなかかっこいいでしょう。どうでしょうか???????? 

 


地震に方向があるのでしょうか?????

2011-06-09 16:38:09 | Weblog

 7月23日の、この文政の京都地震の、おそらく最後の余震となったのではと思える地震について報告しています。その中で、此の時に起こった地震の方向を、ご丁寧にも、千楯先生は「戌亥から辰巳」と記しています。それも、「諸人の説同斯如」と、誰もがそう思ったと書いています。
 その証しだと思うのですが、次のように説明しています。

 「愛宕山大黒にて漸坊二軒残り、其余並に茶店等皆谷へ崩れ落山割れしよしなり。高雄山も同様本堂大破の由。禁庭摂家公卿の御築地、皆崩れて大破也。御城同様御門石にゑこみ、北の方南の方石垣堀へ崩れこみたり。城内はことに荒れたる趣に思われる」

 と。

 この愛宕山から高雄山、御所、更に、御城の地震の影響を揚げています。この一帯が京都の町中の「戌亥から辰巳」の方向に当たるのかどうかは分かりんが、兎に角、このように書いています。
 中でも。愛宕山大黒さんは、二十三日の余震のため大損害を受けたのです。千楯先生の記録によりますと、そこにあった宿坊でしょうか二軒だけを残して、後は周りにあるお店とともに、総て、谷へ崩れ落ちたと、書かれています。このお宮さんには参った事はないのですが、相当大きな御社だと、想像していますが。
 又、天皇がおられた御所だけでなく、二条城も相当被害にあったもようです、その外側は周りから十分見えますので、被害の様子は分かりますが、その城中の様子までは分かりません。そこで、「城内はことに荒れたる趣に思われる」としか、書くことはできません。城中の被害はその周りの御濠の様子からしか判断できなかったのでしょうか。その時の地震の被害の大きさに肝を潰している京都司所代につめている御役人の右往左往している趣を感じさせずにはいません。

  七月二日以来、「これでもか、これでもか」と、幾度となく、京都を襲う自然災害に対しての人々の不安を何となく感じさせるような文章です。何処かの偉いさんではないのですが、京都人に対する天罰かもしれないという思いが何か現われているように、私には、感じられてなりません。どうでしょうか。


これで地震の終わったかと思った瞬間です。

2011-06-08 18:36:47 | Weblog

 千楯先生、まだまだ文政の大地震の記録を記しています。
 
 十八日の集中豪雨を終止符として、此の度の地震は終息したかに思えたのですが、ところが、自然なんて物はそんなに生半可なものではありません。十九日から雨も止み、二十日から二十三日までは晴れと記しています。人々の暮らしも一段落したのでしょう「やれやれ」と安どの様子が「晴」という字の中から伺う事が出来ます。
 しかし、一応終息したと思われていた余震が、それも相当大きなのが、二十三日に三度斗あったのだそうです。

 「今日昼夜三度斗地震。此之度地震は戌亥の方より辰巳の方へ向け震ひし様也」
 と。
 これは、今回の地震の震へが戌亥、北西方向から辰巳、東南方向に向けてであったと、千楯先生は説明しています。
 「ちょっと待ってくれ。千楯先生よ。地震のゆれの方向が、果たして、このように北西から南東へと震れたと分かるものでしょうか」
 と、云う素朴な疑問が湧いてきます。左右にゆれるのか上下にゆれるのかぐらいは分かると思いますが。どの方角に揺れが走ったか、その方向までは分からないのだ普通ではないかと、私は思うのですが。
 でも、千楯先生、誰もがそんな疑問を持つだろうと予想していたのでしょうか。「諸人の説同如斯」と、御丁寧に付けたしておられます。そこらに居合わせた総ての人々が異口同音に「そう言っていた」と。
 竜巻かなんかですと、その方向性までがはっきりと分かるのが普通ですが、地震でも分かるものですかね?????断層が地表を通っていたのでしょうか。

 なお、「諸人の説同如斯」ですが、<しょじんのせつ かくのごとくおなじ>と、読むのではないかと思います。例の漢文先生、また、近ごろ、少々体の具合が悪く床に伏せっていると聞いて、尋ねるのを遠慮しましたので、こんな読み方でいいのかどうかは定かではありません。これでいいでしょうか。誰か教えてくれませんか。


“五七は雨”による山科付近での珍しい通行止め

2011-06-07 10:54:21 | Weblog

 文政十三年七月二日申時、と云いますから午後4時頃です。「五つ・七つ刻に地震が起こると、必ず、その後雨が降る」と、当時の流行歌の中で歌われていたのですが、此の時の地震は、ちょうどその五つ時、今の時間にすると、ちょうど4時ごろです。だから、京の人々は、きっと、この地震の後には、雨が降るだろうと予想していたようです。

 それが、地震の約二週間後に、その予想は的中して、京都付近は大雨になって、山崩れや洪水に見舞われたのです。何mmぐらいの雨が降ったのかは分かりませんが、局地的には1000mm以上の降水量あったのではないかと思われる節があるのです。
 それは 「大津街道山科御廟野邊は、竹筏にて十九日は往来侯由也」
 と、書かれているからです。
 この山科御廟野という土地は、天智天皇御陵がある現在のJR東海道本線の山科駅付近ですよ。この辺りには、大洪水に見舞われる様なそんなに大きな河川はありません。それが通行止めになるくらいの集中豪雨による洪水です。ここは東海道の京への入り口の要目です。上り下りの旅人がひっきりなしに通っていた街道です。それが通行不能になったのです。大変な交通渋滞が起きたのではと思われます。しかし、早くも、此の洪水の翌日、七月十九日ですが。洪水の中を、多くの旅人が往き来出来るようになったのです。
 この辺りには人を乗せて対岸まで渡せるような大きな舟はなかったのでしょう、平生そんな舟が必要な場所ではありません。その時、この地方の人が考え出した交通渋滞解消法が、周辺に沢山ある竹を利用して、急遽、舟の代わりに竹で筏を作り、それで旅人の往来を手助けする方法でした。
 此処は東海道の急所です。旅人は勿論ですが、地域の人たちも、その対策に、相当うろたえ、右往左往したのではないかと思われる様子が目に見えるようではありませんか。
 こんなめったに起こらないような、100年に1回もない程珍しい風景を記録して、千楯先生は地震によってもたらされた騒動と一緒に、当時の流行り歌と絡めて、御丁寧にも書き留めているのです。あまり知られてはいないのですが、東海道中の物語の中の特徴ある一つになったのです。千楯先生の他に、誰もこんな記録を残している人はいませんもの。
  
 その後
  「・・・・・・今夕方雷鳴あり。十九日曇天。廿日同廿一日晴廿二日同今廿三日晴夜曇り少し雨ふる」
 と、この数日間の雨に付いても、この洪水とともに、書き出しの「五七は雨」を克明に記しています。

 


「紙魚室雑記」は名著です

2011-06-06 11:23:50 | Weblog

 「災害は往々にして重なるを常とする」。こんな言葉が格言があるのかどうかわ知りませんが、何か自然災害が起きると、それが起因になってかどうかは知りませんが、しばしば引き続いて、その災害と関係ない別の災害が起るものです。3月11日の東北大震災の後も、雪や雨が東北の地震災害地域を襲い、
 「そんなにまでして東北地方ばかりを天は虐めなくてもよかりそうなものを」
 と、災害を受けなった他の地方にいる人々を思わしめたものです。

 そんな例を、城戸千楯先生は「紙魚室雑記」に詳しく書き記しています。

 「十八日朝より雨ふり、殊に大雨近年は稀なる雨也。終日大雨止まず。所々洪水兼て地震にゆるきありしや、所々堤石垣土蔵建家崩れ侯事おびただしい」
 と有ります。
 先日の地震で地盤が緩んだ所などこの大雨によってもろくも崩れたのがそうです。その具体的な場所として、逢坂山に山崩れがあって、「往来留る」と。更に、大津中寺裏にある川の堤も七十間斗切れ、京町小舟入辺りは洪水に見舞われます。又、京都では清水寺辺りでは山崩れが起き、宇治橋等多くの橋が流されたというのです。伏見六地蔵辺りもやはり洪水で大変だと聞いているとその被害状況が書かれています。

 京都を中心として地震とその後を襲った大雨による被害状況をこのように詳しく記しているのです。この辺りが方丈記の鴨長明との書きぶりに差がある所です。文学的な味わいに視点を置いた文章になったのですが、千楯先生はその記録に重点を置いて書いているのです。
 
 そのように考えると、この千楯先生の著書は、あまり世間には知られてはいませんが、読んで見ますと誠に味わい深い名著であると、私は思っています。


中元の礼は中止すると云う事に付いて

2011-06-05 09:37:06 | Weblog

 文政の京都地震に付いて 千楯は、、地震発生の7月2日から、その大体の終息を見た7月23日までの約二十日間に渡る余震の回数やその度ごとの人々の恐れ慄く様子を克明に記録しております。でも、特に、この中で、さすが千楯だけあって特異なものにも目を付けたなと、思われる記述が、7月15日の記事にみられます。地震後の被災した町民が取った些細な生活上の自己防衛策だと云って云い様な、当時の街の人々の暮らしの一部に付いて触れています。それは

 「十五日の中元の礼至って少なし、慎む人多き故也、当町内は申し合せ礼なし」
 
 です。

 お中元の贈り物を慎んだというのです。街中がそんな毎年慣例になっている風習を、敢て、慎まなくてはならないほどの甚大な被害を受けたからだろうと思われます。「毎年行っているお中元の礼は、今年に限って、吾町内ではだれもしないように」と、そんな毎年行っていて京都人の生活の一部なっているお中元の贈り物すら、この非常時だからこそ、お互いに止しにしようと町内で申合せをしたというのです。
 日本各地から寄せられる義援金なんて近代的な助け合いの制度はなかった時代です。お互いに細々とその地域内だけのごく小さな互助として、お中元の自粛を申し合わせたのです。せめて、お中元を止める事によって、ささやかなる自己保存政策が取られ、町内で申合せする方法がとられて一般化したのだろうと考えられます。更に、この方法は、一町内と云う事でなくまた、他の町でも呼びかけられて、文政一三年は、「お中元の自粛」が、自然と京都全体に広まったのだそうです。

 こんな地震による、それまでの生活の一部が変更されるという人々の暮らしぶりも書かれているのです。文政十三年庚寅七月十五日の記録です。

 なお、当時の人々の震災など非常時の救援対策として、幕府からも、それら罹災した人々に対して特別な援助もなかったのだろうと思われます。司所代からの「炊き出し」ぐらいなものは有ったでしょうが、義援金のようなものはなかったのだろうと思われますが、どうでしょうか?ちょっと調べてみたのですがそれらに関する資料は見つかりませんでした。


そのなごり、しばしは絶えず

2011-06-04 08:31:20 | Weblog

 長明の名文をどうぞ。

 「かくおびただしく震る事は、しばしにて止みにしかども、そのなごり、しばし絶えず。よのつね、驚くほどの地震二三十度震らぬ日はなし。十日・二十日すぎにしかば、ようよう間遠になりて、或は四五度・二三度、もしは一日まぜ、二三日に一度など。、おほかた、そのなごり三月ばかりや侍りけん」

 と書いています。「よのつね」は、いつもだったらと、いうぐらいの意味でしょうか、それぐらい大きな余震が一日に2、30回は起っていたのだですが、10日経ち、20日経ってからは、4、5度、更に、2、3度と云うように少なくなっていき、終には「一日まぜ」、一日置きに数回程度と、余震の回数が日に日に少なくなっていく様子が手に取るように分かります。

 この文章を意識てでしょう城戸千楯はその記録の中に、「七日八日地震昼夜七八つ斗づゝ、八日夜余程大きなるゆり」と、その回数までを詳しく書き残しています。その中に、「五七度に及ぶ」と、随分と工夫した文章表現にしてその驚きを強調していますが、文学的に見て、やはり長明のそれには勝つことが出来ないと思います。
 
 「おいおい何処のどなたかは知らないが、長明なんかと比べてくれるな。この文政の京都大地震を直接経験して、その様子をちょろっと書いただけだよ」
 と、千楯先生からはお叱りを受けるかもしれませんが。でも、この文は、言わずもがなですが、地震学者にとっては大変貴重な記録である事にな間違いありません。 
 と云う事でもないのですが。千楯先生の記録をもう少々。

 「九日十日より末十四日夜也、今日に至り大小は有ながら一昼夜に五ツ六ツ、或は三ツ四ツづゝ地震す、その度々諸人肝を冷やす事始の如し」

 どうでしょうか。

 


引き続き方丈記を

2011-06-03 10:06:58 | Weblog

 「恐れの中に恐るべかりけるは、ただ地震(ない)なりけりとこそ覚え侍りしか」と、長明はその「方丈記」に書き記しています。その恐ろしさの実例として、次のような痛ましい事例を書き綴っています。

 ある武士の6つ7つの子供が、屋根の着いた土塀の下で、ままごとか何かをして遊んでいた時、突然に、その土塀が崩れ、下敷きになって押し潰されてしまいました。その子供は
 「二つの目など一寸ばかりづつうち出だされたるを、父母かかえて、声を惜しまず悲しみあひて侍りしこそ、あわれに、かなしく見侍りしか。子のかなしみには、たけきものも恥を忘れけりと覚えて、いとほしく、ことわりかなとぞ見侍りし」
 と。

 なお、此の地震については詳しい記録も残されております。それによると、元暦二年(1185)の夏に起き、「文治京都地震」と呼ばれており、多数の死者が出て、宇治橋なども崩れ落ちたと当時の歴史書に書かれています。(ちなみに震度は7.4) 
 
 長明が書いているこの幼子の惨たらしい死様も、その時の犠牲者の一人であったらしいのです。


ここらでちょいと道草をして方丈記を

2011-06-02 20:52:45 | Weblog

 千楯先生からちょいと離れて、ここらで元歴年間にあった」京での地震に付いて鴨長明先生が書いた京の町中の様子に付いて触れてみます。先生曰くです。

 「・・・おびただしく大地震ふる事侍りき。そのさま、よのつねはらず。山はくずれて、河を埋み、海は傾きて、陸地(くがち)をひたせり。土裂けて、水湧き出て、巌割れて、谷にまろび入る。なぎさ漕ぐ船は波にただよひ、道行く馬は足の立ちどをまどわす。都のほとりには、在在所所、堂舎塔廟、一つとして全からず。或はくずれ、或はたふれぬ。塵灰立ち上りて盛りなる煙のごとし。地の動き、家をやぶるる音、雷にことならず、家の内におれば、たちまちにひしげなんとす。走り出づれば、地割れ裂く。羽なければ、空を飛ぶべからず。龍ならばや雲にも乗らん。恐れの中に恐るべかりけるは、ただ、地震なりけりとこそ覚え侍りけしか」

 と。

 流石長明先生です。是を読みますと臨場感が沸き立ちます。地震のすごさが、テレビの前でなくても、その場に、あたかも居合わせているかのような感じがしてくるから不思議です。言葉の持つ魅力でしょうか。
 なお、「たちまちにひしげなんとす」と云う文章が有りますが、この「ひしげる」と云うのは、岡山弁では、「ひしゃげる」といいます。元の姿を留めないぐらい壊れてしまうと云う時に使います。

 「海が傾きて、陸地をひたせり」とありますが、今回の東北地方を襲ッた津波の様子と全く同じです。海が傾くのです。将に、ものすごい迫力で迫りくる山のような海水、あたかも海が傾いて、海にある水総てが押し寄せる様だったと、今回の津波から逃れた人々が語っていた、その通りの光景がこの言葉の中から見えて来ます。長明は、実際には、そんな津波は見てはないと思いますが、人づてに聞いた話から、「海が傾く」と云う言葉を造り出したのでしょうが、その感性の優秀さには驚かされますよね。流石にすごいと思いました。


紙魚室雑記にある文政の京都地震

2011-06-01 10:08:09 | Weblog

 文政13年に起きた京都の地震に付いての城戸千楯の記録をもう少々。
 
 地震の起きた7月2日以後京都の町中では、5日まで、余震による「ゆり」(千楯はそのゆれをゆりと書いています)やいわゆる風評被害にあって人々は大方家の中でなく「今夜も大道に夜を明かす人おほし」と記しています。なお、街角の「凡て門々用水出す」とあり、人々が大層火事を心配していて、その為の備えをしていたことが分かります。
 それが6日になると、余震も12、3回に減り、人々が安心したのでしょうか「今夜は大方大道に出る人なし」とあり、ようやく地震発生から5日目にして人々は安堵して、元道理の自分の家での生活が出来るようになったのでしょうた。しかし、それでも、「猶盗賊火付の噂有て物騒なり」と記しています。
 6,7日になると、余震も1日に7,8回と、次第に納まったかに思えたのですが、すると8日の夜になって、再び、余程大きな「ゆり」が続けて
 「五七度に及ぶ、夜寅の刻斗り也皆々騒ぎて又大道へ逃出、夜を明かす事先々の夜のごとし」
 とあります。
 普通なら「五六度」と書くのですが、そこは宣長のお弟子さんです。「五七度」と書いて、「五、六回はゆれたか、否七回はあった。それも相当大きい奴が」と云うくらい感じたのでしょう。こんな表現を方法を取っています。巧みな文章表現だと、感心させられます。