私の町 吉備津

藤井高尚って知っている??今、彼の著書[歌のしるべ]を紹介しております。

“五七は雨”による山科付近での珍しい通行止め

2011-06-07 10:54:21 | Weblog

 文政十三年七月二日申時、と云いますから午後4時頃です。「五つ・七つ刻に地震が起こると、必ず、その後雨が降る」と、当時の流行歌の中で歌われていたのですが、此の時の地震は、ちょうどその五つ時、今の時間にすると、ちょうど4時ごろです。だから、京の人々は、きっと、この地震の後には、雨が降るだろうと予想していたようです。

 それが、地震の約二週間後に、その予想は的中して、京都付近は大雨になって、山崩れや洪水に見舞われたのです。何mmぐらいの雨が降ったのかは分かりませんが、局地的には1000mm以上の降水量あったのではないかと思われる節があるのです。
 それは 「大津街道山科御廟野邊は、竹筏にて十九日は往来侯由也」
 と、書かれているからです。
 この山科御廟野という土地は、天智天皇御陵がある現在のJR東海道本線の山科駅付近ですよ。この辺りには、大洪水に見舞われる様なそんなに大きな河川はありません。それが通行止めになるくらいの集中豪雨による洪水です。ここは東海道の京への入り口の要目です。上り下りの旅人がひっきりなしに通っていた街道です。それが通行不能になったのです。大変な交通渋滞が起きたのではと思われます。しかし、早くも、此の洪水の翌日、七月十九日ですが。洪水の中を、多くの旅人が往き来出来るようになったのです。
 この辺りには人を乗せて対岸まで渡せるような大きな舟はなかったのでしょう、平生そんな舟が必要な場所ではありません。その時、この地方の人が考え出した交通渋滞解消法が、周辺に沢山ある竹を利用して、急遽、舟の代わりに竹で筏を作り、それで旅人の往来を手助けする方法でした。
 此処は東海道の急所です。旅人は勿論ですが、地域の人たちも、その対策に、相当うろたえ、右往左往したのではないかと思われる様子が目に見えるようではありませんか。
 こんなめったに起こらないような、100年に1回もない程珍しい風景を記録して、千楯先生は地震によってもたらされた騒動と一緒に、当時の流行り歌と絡めて、御丁寧にも書き留めているのです。あまり知られてはいないのですが、東海道中の物語の中の特徴ある一つになったのです。千楯先生の他に、誰もこんな記録を残している人はいませんもの。
  
 その後
  「・・・・・・今夕方雷鳴あり。十九日曇天。廿日同廿一日晴廿二日同今廿三日晴夜曇り少し雨ふる」
 と、この数日間の雨に付いても、この洪水とともに、書き出しの「五七は雨」を克明に記しています。