私の町 吉備津

藤井高尚って知っている??今、彼の著書[歌のしるべ]を紹介しております。

中元の礼は中止すると云う事に付いて

2011-06-05 09:37:06 | Weblog

 文政の京都地震に付いて 千楯は、、地震発生の7月2日から、その大体の終息を見た7月23日までの約二十日間に渡る余震の回数やその度ごとの人々の恐れ慄く様子を克明に記録しております。でも、特に、この中で、さすが千楯だけあって特異なものにも目を付けたなと、思われる記述が、7月15日の記事にみられます。地震後の被災した町民が取った些細な生活上の自己防衛策だと云って云い様な、当時の街の人々の暮らしの一部に付いて触れています。それは

 「十五日の中元の礼至って少なし、慎む人多き故也、当町内は申し合せ礼なし」
 
 です。

 お中元の贈り物を慎んだというのです。街中がそんな毎年慣例になっている風習を、敢て、慎まなくてはならないほどの甚大な被害を受けたからだろうと思われます。「毎年行っているお中元の礼は、今年に限って、吾町内ではだれもしないように」と、そんな毎年行っていて京都人の生活の一部なっているお中元の贈り物すら、この非常時だからこそ、お互いに止しにしようと町内で申合せをしたというのです。
 日本各地から寄せられる義援金なんて近代的な助け合いの制度はなかった時代です。お互いに細々とその地域内だけのごく小さな互助として、お中元の自粛を申し合わせたのです。せめて、お中元を止める事によって、ささやかなる自己保存政策が取られ、町内で申合せする方法がとられて一般化したのだろうと考えられます。更に、この方法は、一町内と云う事でなくまた、他の町でも呼びかけられて、文政一三年は、「お中元の自粛」が、自然と京都全体に広まったのだそうです。

 こんな地震による、それまでの生活の一部が変更されるという人々の暮らしぶりも書かれているのです。文政十三年庚寅七月十五日の記録です。

 なお、当時の人々の震災など非常時の救援対策として、幕府からも、それら罹災した人々に対して特別な援助もなかったのだろうと思われます。司所代からの「炊き出し」ぐらいなものは有ったでしょうが、義援金のようなものはなかったのだろうと思われますが、どうでしょうか?ちょっと調べてみたのですがそれらに関する資料は見つかりませんでした。