千楯先生は、この文政の京都大地震について、どの地区の被害が大きかったという事につても記録しています。それを最後として、京都の地震に付いても大層長くなりましたが、終わりにします。
「此の安政13年4月二十三日の地震の被害に付いて、大津は京都の3歩、淀は2歩、伏見や亀山は京都と同じ程度、鞍馬・宇治黄檗は至って軽い。六地蔵は大荒れ、比良高島辺りでは一度普通より少し大きめのゆれがあった程度で、子供に至っては気が付かなかった者が多い。彦根、大阪、伊賀、大和などもほとんどゆれなかった。
此の事から考えてみれば、此の十三日のゆれは京都を中心とした狭い範囲の余震だったと思われる」
このように書き残しています。最後に「まことや」とありますが。本当にそんな狭い範囲のものなのだったのだろうかと疑っています。
考えてみると、自分の身の回りで起きた自然現象である「地震」に付いて、このように詳しく細かい部分に渡って、戌亥から辰巳にかけて起きたと云う、その方向まで、記録しているというのは、しかも、彼は国文学者です。本当に珍しいものではないでしょうか。
それから、今朝の新聞に出ていたのですが、三月十一日の東北地方を襲った地震についての報告がありましたが、二,三日間は被害に合った人々は、屋内で生活できないで、寒さを凌いで道路にて寝起きしたとありましたが、千楯先生も、此の中で「今宵も大道にて夜を明かす」と書かれていますが、災害時の人の心理は、何処に置いても、時代を超えて同じ行動は見られるのだと感心して読みました。
最後になりましたが、早く、東北地方の人々の安心して暮らせる日の来たらんことを祈りながらの、千楯先生の地震について、書き終わりにします。