私の町 吉備津

藤井高尚って知っている??今、彼の著書[歌のしるべ]を紹介しております。

百年河清を俟つ

2011-04-11 12:18:51 | Weblog

 鹿の生血を啜って『恐ろしき者』と噂された江漢でしたが、その狩りに時間がかかり、帰り路は、如月の日がとっぷりと暮れてからになりました。その行列の通る道は狭い田圃のあぜ道などあって、危険という事もあったのでしょうか、其の道々には、次のような工夫がしてあったと、西遊日記には書かれています。

 「日も暮れければ、田夫 田畑の間へタイ松を持ち 数々出し路を照らし、田夫の家にはあんどんを門口にだし、タイ松を持たせ城下迄で連行ば、尚ゝありがたく思ふよし・・・・」

 どうです。田夫の家々にはその門口にあんどんを灯して掲げ、路々にはタイ松を灯して照らし、殿さまのお帰りに危険がないように城下迄一里の道を護衛して行ったのです。果たして何人ぐらいの、田夫と言いますから農民でしょうが、この殿さまの思い付きの鹿狩りの護衛に招集されたのかは分かりませんが、少なくとも10人ぐらいではないかと思います。それらの田夫たちの手にした松明に道を照らされ、その明かりを頼りにお城までお帰りになられたのではないかと思います。しかも、その上、家々の門口には、ご丁寧に、行燈を掲げていたのです。それも城下迄続いたのですから、これは、現代の街路灯の魁であったのです。それに対するいくばくかでもお礼が、又、必要だった事は当然のことですから、殿の思いつきによる鹿狩りであっても、このような雑費も入れて、相当の出費を覚悟をしなくてはならないので、用人が苦虫を噛み殺すもあながち嘘ではなかったように思われます。
 それにしても、このような農民のこの上ない配慮ある親身なる親切心は、生き馬の目を抜くと言われた江戸のお人である江漢には、大層な驚きであったことは確かです。
 だからこそ、「尚ゝありがたく思ふよし」と、書いたのではないでしょうか。

 

 なお、昨日の私のブログへの訪問者は170で、順位も8,665位でした。このブログを始めて、もうかれこれ6年になりませうが、8,000台に入ったのは初めてでした。9,000台は、今まで3回ですがありました。

 投稿総数1,500,000中の8,000台です。大したものだと自分一人で悦にいている次第です。一応は、5,000ぐらいの順位を目指していますが、これは私にとっては『河清を俟つ』に等しい事ですが、それを目的に暫らく書き続けたいと思っています。