私の町 吉備津

藤井高尚って知っている??今、彼の著書[歌のしるべ]を紹介しております。

為体と不得巳

2011-04-24 08:18:59 | Weblog

 江漢の新見草間の話の中に「不得巳として受けたり」と、書いてありました。さてです。この「不得巳」ですが、一体どんな意味でしょうか。辞書を引いたのですがありません。

 そこで、あの漢文先生の、久しぶりのお知恵拝借と相成りました。健康をようやく取り戻したという事で、出かけます。話が東北地方の大災害に及び、東電の原発処理にも困ったもんだと云う話にもなりました。例の如く、彼曰く、
 「人のしでかしたもんに、なんかあった時、どうしたらええかと、云う事も分からんような、ひょんなげなもんを こしれえてえて、そうてえげえなことじゃったんで こらえてつかあせえたあ ありゃなんじゃろうかなあ。そげんことあ とうのむかしから分かっておったんじゃろうに。そりょう、みやすうに考げえやがって、とどのつまりが、どうにもでけんのじゃ。なんとも情けねえことじゃあねんかのう」
 とかなんとか、ぶつくさのたまわります。
 「本当に、ていたらくな話じゃんねえか」
 そこで、お茶を一口、ややあって
 「おうそうじゃ。おめえは、このていたらくというのは、どげん書くんか、しっとりんさるんか」
 急に、大学教授に早変わりして、私の返事なんか当てにしないという風に、
 「おせえたらあ。・・・・・・・今はこんな字を、しっとるもんは おりゃあへんとおもよんじゃがなあ。」
 と、云って、彼の愛用の自慢の誠に古臭い旧式な万年筆を、おもむろに取り出し、「為体」と、日本一うまい字だといつも自慢している字で書いてくれました。
 「へえ、それをていたらくと、読ますんですか」と、一応は感心して見せます。すると、教授殿、即座に、「きみいー」と声を一オクターブ高めて云います。
 
 「読ます?とんでもねえ。読むんだ。これもおしえたらあー。ていたらくの〈たら〉は〈たり〉の未然形だ、それに接辞くの字がちいて ていたらくになったんじゃ。ありさま、なりゆきと云う意味につかようたんじゃが、その内に、情けねえ有様を云うようになったんじゃ」

 と、未然形だの何だのと訳の分からない言葉が飛び出してきましたが、そんなことは無視して話を聞いていました。適当な時を見計らって、いよいよ私の質問を云いだす機会が来ましたので、やおらお尋ねしました。
 「不得巳と云う言葉が読んでいた本の中にあったんじゃが、これはどう読んだらええんかのう」
 と 。

 「何じゃなそれは、それがどうしたんなら。読み方。よっしゃよっしゃ」と、又、ふいと立ち上り、本棚の中から、是又、古臭い本を携えて来ます。ペラペラ本を捲っていましたが、「それはここにケエテあるんじゃ」と、私の前に示されます。何時頃の本か知りませんが、随分と古い論語本です。そこに私が出した「不得巳」が燦然と光る様に載っていました。流石わが友、大学教授だけあるなあ。こんなことまでしっとんたんかと、感心しきりでした。

  「これは〈やむをえず〉と読むんじゃ」と、又、ひとしきり、彼のお説教を聞きました。子貢がどうの、孔子がどうのとの講釈です。近頃の政治の、「不得巳」に付いてや、それこそまたまた「為体(ていたらく)」についてのお話を承りました。