私の町 吉備津

藤井高尚って知っている??今、彼の著書[歌のしるべ]を紹介しております。

ようやく吉備津の桜が開花しました

2011-04-01 17:20:47 | Weblog

 昨年の日記ですと、3月25日には吉備津の桜が開花していますが、今年はあの大震災に震えたのでしょうか、やっと4月朔の今日、それこそ江漢の暖色に誘われるようにして吉備津の標準木に2,3輪の花びらを付け、開花を宣言しておりました。何もかにも異常ずくめの今年の春でした。
                               

 また、昨年も御紹介したのですが、其の桜の名前は分からないのですが、駅の駐輪場にある桜も、漸くですが、開花して、木全体をそれこそ桜色に染めておりました。
 此の木について「雨寄晴好」と、昨年は御紹介したのですが、今年は、此の桜に未だ雨は見えません。こことばかりに「晴好」をいっぱいに見せつけております。特に、西日を受けて桜色を木全体にまぶしつけたような輝きは何とも云われない美しさを漂わせています。ちなみに、昨年は此の木の開花は3月22日でしたので、相当遅れています。3月の初旬ごろ、まだ蕾は硬くしっかりと閉じているにもかかわらず、何となくこの木にあるかないかのような僅かなさくら色を刷毛で化粧しているような姿で立っていましたが。開花した今日の姿は、日の光を浴びているという関係があるのかもしれませんが、堂々と己自身の桜色をいっぱいに撒き散らしているようでもありました。
                           

 なお、吉備津にはもう一本桜の名木があります。御存じ。龍神池のしだれざくらです。この2,3日が見ごろになると思われます。この他吉備津神社回廊の桜はまだ蕾ですが、4,5日もすれば、その回廊の屋根と一緒にマッチした何処にもない美しさを見せてくれます。お楽しみに。これも、又、吉備津の桜の名木です。
                                       

 

 

 

 

   


皆肝をを潰す

2011-04-01 10:37:11 | Weblog

 「4日。上天気。暖気。4時より狩にお出之あり」と、ありますから午前10時ごろから例の鹿狩りに出発されます。江漢が泊っている宿屋の前を通って足守川をさかのぼり、山奥くへ1里ほど歩いて山深く入り、そこでうさぎ一疋を取ったが「鹿三ツ出けれど取れず」。それからその山から下りられ、「何とかいう里」の豪商の家で昼食を取っています。この「何とかいう里」は、私は、現在の足守「日近」ではないかと、推測しています。昼食の後、狩りの一行は「向ふの山に入る」
 そして、ここでの狩りの様子を江漢はやや詳しく次のように書き現わしています。

 「セコの者数十人、太鼓、銅鑼を打って山の根を追う。鹿一疋、池の辺に出で後ろの山に入る時に鉄砲雨の如く、鹿鉄砲に中り藪の中に入る。」とあります。

 此の狩りで藩主に従った者はセコ数十人を引き連れての出陣です。しかも、昼食を途中の商家に用意させています。それだけでも大変な出費ではなかったかと思われます。出費だけでは済まされません。その狩りへの準備も大変な大仕事になるはずです。何処でどのように昼食を取るかのかという交渉も、事前に、きめ細かく決めておかなくてはならないと思います。

 そんなことを考えてみると、突然、四日に、再び、鹿狩りに出ると言われて用人黒宮氏を大いに驚かしたのではないかという想像も、十分に、お分かり頂ける事だと思います。殿さまの主宰なさる鹿狩りは、ただ、山に立ち入って鹿を取るだけだという、誠に単純な狩りとは違います。各方面への配慮心配りが大切なのです。それだけ、藩にとっては大変な労力を必要とした行事なのです。だから、殿さまの、その時々のいい加減な気持ちで勝手に決められては困る行事なのです。そこら辺りは、殿さまには理解しがたい事だったのだと思いますが。

 まあ、このようにして、一応、山から追いだした鹿を、勢子が放った鉄砲に中り、そのまま藪の中に逃げ込み倒れたのだと思われます。それを素早く見た江漢も、また、勢いよいよく飛びこみ仕留めた鹿の耳元を突き破り、
 「生血を吸いければ」です。
 
 鉄砲の弾に中って倒れた鹿の耳元を脇差か何かでしょうが、突き破り、そこから出る生血を啜ったのだそうです。それを見ていた殿さまも随分と驚かれたには違いないと思われます。それを見ていた人々も
 「皆肝を潰す」と、書かれてあります。普通ならそのあまりの残酷さのために肝を潰すだけではないと思われます。気の弱い人だったらぶっ倒れてもおかしくないような光景ではなかったのかと思います。