私の町 吉備津

藤井高尚って知っている??今、彼の著書[歌のしるべ]を紹介しております。

足守から岡山石関町の若林宅へ

2011-04-17 15:41:40 | Weblog

 二月八日、殿に目通りしてから、足守を立っていますが、餞別でしょうか、金五百疋と八丈嶋一反を頂いています。五百疋と言えばどのくらいの金額か分かりませんが、大体、今の金額にすると五万円程度でしょうか、10万円はなかったと思います。その金額は多いのか少ないのかは分かりませんが、一応、餞別を頂いています。その他にも黄八丈でしょうか反物一反もつけて。当時の餞別としてはそれくらいが相場だったのでしょう。
 それから、足守にいたた時お世話になった人たちとの別れもあったのでしょうか、最初は、もう少し早く出発と思っていたよううですが、ついつい時間が立って、その日の八つ時に、宿の主人と例の鹿肉をいやいやながらにも料理した吉備津神社の氏子である料理人二人して、足守の街外れまで見送ります。そこから二里ほど先に有る「宮内から山陽道に出て岡山石関町の若林宅に着く」とありますが。本当は、宮内ではなく板倉の宿だと思われます。当時、宮内村と板倉村が、現在の吉備津ですが、山陽道が通っているのは宮内ではなく、板倉です。念のために。

 だから、その日は行きとは違って、多分、もう一度、帰りにも立ち寄ってみたかったように此の日記からは読み取れるのですが、足守での出発迄の時間が以外とかかり、ついに、宮内には立ち寄ることができなくて、板倉から、そのまま、また二里先に有る岡山の石関町まで行きます。
その岡山では、若林親子の「能く能くお帰り」と、言う言葉と共に、鄭重な出迎えを受けています。その歓迎ぶりに江漢はいたく感激したのでしょうか「何方へ行きても尊敬されるもふしぎな事かな」と、ご丁寧にも書き留めています。

 二月九日 雨とあります。何処へも出歩かずに、若林宅で絵でも描いたのでしょうか。「蝋画」をビイドロに認める」と書いてありますから、多分、ガラスに油絵の具で描いたのでしょうか、その油絵を見て大層、宿の倅喜左衛門が驚くやら感心するやで「吾を信じること如神」とあります。

 十日も、この岡山で方々に人達と逢っています。そしてこの日の日記にも「何方へ行きても吾名を不知者鮮し」と記してあります。即ち、司馬江漢という名を知らないものは至って少ないと自画自賛しているのです。そこら辺りも、又、江漢の江漢らしい所以でしょうか?????