私の町 吉備津

藤井高尚って知っている??今、彼の著書[歌のしるべ]を紹介しております。

常山紀談に又返ります。池田光政のエピソード

2010-11-12 20:24:22 | Weblog

しばらく、「国民文化祭・おかやま2010」に目を向けて、とんでもない所へ行ってしまったのですが、湯浅常山にまた戻ります。と、言っても、後3回になりました。最後を飾るにふさわしいのかどうかは分からないのですが、あの池田光政のちょっとしたエピソードです。

 その1)
 常山は、光政の事を何時も「新太郎様」呼んでいました。その光政のエピソードを「新太郎様夏目氏の忠死を御賞歎の事」として載せています。

 それは、将軍家光の時の事です。何か徳川家の御歓事があった時だそうです。集まった諸大名達がてんでに徳川家の御家御繁昌を様々に相語ったっていた時の話しが出ています。
 備前藩主池田光政は、最初は、大名たちのする話を聞いていたのですが、ややあって、次のような話をされたのだそうです。

 元亀三年(1573年)、三方ヶ原で3万の武田軍と一万の徳川軍の戦いが行われ、徳川軍は完膚無きまでに敗れ、家康もあやうく命を落としそうになった戦いです。その時の話をしたのだそうです。
 家康は家来数人と馬で落伸びていたのだそうです。それをいち早く察した武田軍の大将秋山某かが追いかけてきたのだそうです。家康に付いていた家来たちも次第に少なくなり、家康も討ち死にの覚悟をしたのだそうです。その時、家康の家来に夏目長右衛門が
  「ここは殿が討ち死にする場ではございません、早御退きなされ」
と、言って、家康が乗っていた御馬の口を浜松の方へ向け、しこたまお馬のさんずを叩きます。驚いた御馬は一目散に走り出し、其のまま見る見るうちに敵から逃れて、失いかけた命を救ったのだそうです。そこに留まった夏目長右衛門は追いかけてきた多くの敵と、「槍の柄を折る程に戦いて討死しけり」と書かれています。
 「夏目長右衛門三方ヶ原にて、権現様の御命に代わり申さずば、かように御繁栄は御座あるまじき」
 と、申したのだそうです。

 この言葉をお聞きになった現将軍は家光侯は
 「今の光政殿の言葉は徳川家の士の節義の心を今更引き起こしたる詞なり、智者の一言はかかることなるべし」
 と、たいそうお悦びになられたのだそうです。

 なお、此の光政の妻「勝姫」は、あの千姫の一人娘です。家光の姪に当られるお方なのです。念のために。