私の町 吉備津

藤井高尚って知っている??今、彼の著書[歌のしるべ]を紹介しております。

朴 天秀教授の話

2010-11-29 19:47:40 | Weblog

「古代吉備の風景」シンポジュームに参加された韓国慶北大学教授の朴先生は、そのパネルディスカッションで、次のように報告されています。

 「4世紀の朝鮮半島では、高句麗、新羅、百済、伽耶の四っの国がそれぞれお互いに争乱を繰り広げ、国内が多いに乱れていて、倭国(日本)がたやすくその中に介入することが出来たのです。当時、まだ、倭では鉄の生産は行われてはおらず、専ら。伽耶からの輸入に頼っていたのです。それが、五世紀に伽耶が高句麗に侵攻されて壊滅したために、鉄製品が入らなくなったのです、そこで新たに頼ったのが新羅だったのです。何か新羅と倭の国は、四世紀ごろから敵対関係にあったと言われているのですが、吉備や大和から多くの新羅など、当時朝鮮半島にあった新羅、百済などの国に関連のある遺物が出土しております。特に、吉備では、この四つの国、総ての遺物が出土します。と云う事は、当時、既に、吉備王国では、盛んに、これら朝鮮半島の国々と、独自に多元的な交流を行っていた。」

 と。述べられておられました。

 しかし、四世紀の吉備王国では多くの、朝鮮や中国からの渡来人による国土開発がおこなわれていたことは確かなことです。朴教授は、この場で、鉄の生産は四世紀には、まだ、日本では行われてはおらず、専ら原料は朝鮮半島から輸入していたと言われていましたが、前にこのブログで書いた高塚遺跡等からも、当時、吉備では既に鉄の生産がおこなわれていた証拠が確認されています。

 この三,四世紀ごろから吉備の国は、これら中国や朝鮮と何らかのかかわりで大いに発展して、大和と覇権を争うまでに勢力を伸ばしていったといわれていますが、その論拠を示していきたいものだと思います。それを探るには、古くから残っている地名から見分けることが出来るのです。

 その一つ、我が吉備津神社の社主は元々賀陽氏であるとされていますが、この賀陽は伽耶が変化したものであると言われます、吉備津の辺りを、昔は、加夜郡と言っていたことからも、このも、又、朝鮮半島と大いに関わりがあったのでは言われています。そんな地名地理に付いて少しばかり探っていきたいと思います。参考にしたのは永山卯三郎の「岡山県農地史」です。