私の町 吉備津

藤井高尚って知っている??今、彼の著書[歌のしるべ]を紹介しております。

土田と云う地名

2010-11-30 21:42:37 | Weblog

 我が町吉備津と同じ、高松町内に「土田」と云うがあります。例の秀吉の高松城の水攻めの時の足守川からの水の取り入れ口の少し上に上った辺りの地名です。

 この「土田」が、まだ、吉備の国が大和に統一されない以前に、中国の秦から亡命してきた帰化人が入植した土地であるというのです。現在は、土田は「つちだ」と呼ばれていますが、この人たちが入植した弥生の時代には「はた」と呼ばれていたと言われます。秦です。日本書紀の応神天皇の時、兄媛の住んでいた「葉田の葦守の宮」に行幸されたという記事が見えます。この葉田が土田と何らかの関係があるのではないかとされていますが。今のところその証拠をつかむような遺物や遺跡などは出ていません。しかし、この一帯が中国や朝鮮からの帰化人が住んでいたという言い伝えは多く残されているのです。

 なお、私の住む「向畑」、すぐ隣の「辛川」も含めて、それらの帰化人との関係があったのではないかと云う人も見られます。

 まあ、このように中国や朝鮮の人たちが、弥生の終わりごろから、この当時「吉備の津」と呼ばれていた瀬戸内海の大きな港を中心にした(高松や一宮を中心とした)この吉備の土地に多く移住して来ていたのではないかと思われます。
 なお、当時の倭の国を代表するような港は、浪速の津(大阪)と吉備の津と那珂の津(福岡)の3つだったそうです。