私の町 吉備津

藤井高尚って知っている??今、彼の著書[歌のしるべ]を紹介しております。

左手に持った木刀が

2010-11-24 20:40:08 | Weblog

 武蔵は岸流の第2の必殺の攻撃技、そうです。岩国の錦帯橋で考案したと伝えられている「燕返し」の刀が真横に、あたかも、直線を描くように、武蔵の腹の辺りをめがけて斬りこまれてきます。その振り払われた刀を、武蔵は、あらかじめ計算に入れていたのでしょう、咄嗟に1mばかり飛び上がります。常山は、武蔵が、どのくらい飛び上がったかは書いてはないのですが、1mぐらいではなかったかと私は想像しました。これから稲の早苗を植えようとする田圃の上を燕がよく飛ぶのを見たことがあるのです。上から真っ逆さまに、急転直下降下し、そのまま、大方1mぐらいの高さを水平に飛び去る燕の姿をよく見ていました。これを岸流は己の刀の技法に応用したのです。

 その岸流の燕返しを、武蔵はあらかじめ研究しつくしていたのだと思われます。ある本によりますと、武蔵には、この時、多くの弟子がいたと書いている者もありますから、きっと、当時、弟子がいたはずです。その弟子たちに岸流の技法を、密かに見学させて、それをもとに、岸流との戦い挑んだのではと、考えられます。孫子の兵法ではありませんが、武蔵は、十分に敵を知っていたのです。

 この岸流の横からの二振りめの刀はどうしても避けなければなりません。防ぐのではありません。かわさなくてはならないのです。岸流の刀と武蔵の櫂で作った木刀とが交わったなら、必ず、武蔵は、この戦いは負けであることを知っています。その為には。どうしてもこの二振り目の岸流の刃は避けなくてはなしません。だから、一mも飛び上がって、その刀を避けます。縱からの攻撃と横からの攻撃の、第二刀目に移る動作の時間の差を武蔵は利用したのです。横からの縦に移る時間は縱からのより、ごく少ない時間ですが、時間がかかるのです。それを武蔵は狙います。そこに、ほんの少しなのですが、一秒の何百分の一ぐらいの隙(すき)が生じるのです。
 此の時、岸流の刃は武蔵の飛び上がった袴の裾を三寸ばかり斬り落としたのだそうです。これも武蔵の計略だったかもしれません。なぜなら、その時履いていた武蔵の袴は皮の袴でした。