私の町 吉備津

藤井高尚って知っている??今、彼の著書[歌のしるべ]を紹介しております。

武蔵足を縮て飛びあがれば

2010-11-20 11:16:14 | Weblog

 いよいよ武蔵と岸流の戦闘になります。その様子を常山は、

 「武蔵二刀を組みでかかれば、岸流拝打ちに斬る処をうけはずしてその頭を打つに、岸流身をふりて左の肩に中る。」と、書いています。

 さて、昨日、「どうして武蔵はこんな短い、しかも、木刀で岸流に立ち向かったのでしょうか」と、書いたのですが、今日は、常山の武蔵と岸流の戦いの様子から、私なりにその答えを考えてみました。

 なお、この岸流の拝打ちと云うのは、辞書で調べてみると「刀の柄を両手で握って頭上に高く構え、上から下へ切り下げること」とあります。

 二人の間で、どちらが先に仕掛けたのかは分かりませんが「武蔵二刀を組みかかれば」と書いていますから、岸流の方が、先ず、斬りかかったのだと思います。それを武蔵はいとも簡単にうけはづします。それは、岸流の三尺の刀が、拝打ちで振りおろされるであろう距離を、武蔵は、あらかじめ計算して、予測していたのではないでしょうか。その距離を、1.5~2mと計算して、それだけ岸流との距離を離して構えていたのです。その為にその第一撃の攻撃を交わすことが出来たのです。と同時に、武蔵は、岸流の二振り目の横からの返し切りの前に、右手に持っていた長い方の、そうです。二尺五寸の櫂の木刀を岸流の頭上めがけて打ちこみます。しかし、岸流もいっぱしの剣術者です。その武蔵の第一撃を頭は交わしたのですが、左肩に食い込みます。大分の痛手を受けたことは確かです。

 ここからが私の推量です。
 左肩をしたたか打たれた岸流は、その燕返しの技で持って、刀を横に払うこと必定です。案の定、岸流は踏み込んで返す刀を横に払います。普通の者ですと、ここで勝敗は付くのですが、それをも武蔵は計算していたのだと思います。
 「武蔵足を縮て飛び上がれば」
 と、書いています。どのくらい飛び上がったのかは分かりませんが、兎に角、飛び上がり、岸流の横に払った刀を避けるのです。その時の二人の間は、「岸流が踏みこんで」居りますから、武蔵の左手にした一尺八寸の櫂の木刀は、ゆうゆうと岸流に届く位置にいたはずです。
 この飛び上がり作戦を取って、第二刀の岸流の燕返しを避けなければなりません。その為には武蔵自身の身が出来るだけ軽くなくてななりません。そこで、武蔵は、わざわざ軽い木刀を造ったのではないかと思われるのです。
 なお、櫂に使われる木ですが、昔から、樫の木で作られるのが普通です。非常に硬い、しかも重い木なのですが、櫂にして使っていたのです。乾燥していて重量はそれほどでもありません。硬くて軽い櫂を選んだのだと思います。

 こんな下らない自問自答をお笑いください。