私の町 吉備津

藤井高尚って知っている??今、彼の著書[歌のしるべ]を紹介しております。

おせん 51

2008-06-14 08:45:25 | Weblog
 次に、おせんが政之輔に逢ったのは桜の馬場での会が行われる3、4日前です。最終打ち合わせのお稽古が終わってから師匠の家を出ての帰りです。
 「おせんさんでっか」
 と言う、まだ、幼い使いぱっしり風な男の子です。
 「これふくろうの先生からだす。受け取ってもらえまへんやろか」
 と、紙切れを渡し、あっという間に小走りにいんでしまいます。
 その紙切れには、明日、申の刻に松の葉まで、お出でくださいと書かれていました。最後にちょこんと書いている「御出被下候   ふくろう」と言う字が、前までは「なんてへたくそな字やねん」と、思っていたのですが、今、つくづく見ると、何となく頼もしいようなうれしいような、なかなかしっかりとした力強い字のように思えます。
 すると、なんだか明日が、急に、待ちどうしいような気にさへなります。
 
 2回目の松の葉です。
 「ふくろう先生、先ほどからお待ちどす。どうぞ」
 と、女将に案内されます。
 「ああ、やっと逢えました。この2、3日、結構小忙しくててんてこ舞いしとったんどす。ちょっと怖いおじさんにも会ったりしたもんですさかい。・・・・おせんさんの会も近づいてきよりましたな。・・・逢えて本当によかた。この前、ここで女は損だと、おせんさんが言わはりました。あれからずーっと、考えていましたのや。なかなかいい考えが浮かんできよりへんのどすが」
 と、しばらくおせんの方を見ながら言います。やや間を置いてから、急にさびそうに一言一言噛みしめるように言います。
 「それから、おせんさんの琴、聞きに行けんよういなってしもうたんどす。4、5日京までちょっと行かならん用事が出来たもんで。それも許してもらおうと、今日は来てもろうたんどす」
 女将さんが出来上がった料理を運んできます。
 「せっかくでおますよって、特別に今日は、こいさんのお琴がうまいこといきますようにという前祝もさしてもらいます。ふくろうの先生にはしかられるかも知れへんのどすが、おささ一本だけつさせて貰いましたぇ」
 ふくろうの先生はちらりとお酒の燗を見ましたが、そのまま話します。
 「おせんさんは、この前、女は損やと言わはりましたな。ずーっと考えておったのです。女と言えば、私には母しかおれへんのどすが、そこからしか考えることができまへん・・徳川さまの貧乏役人だった父と私のためにしか生きてはいなかったようです。・・・父がいなくなってからは、特に、私のためだけに生きていたかのようどした。長崎に行って間に、何もいわんと、勝手に一人で父の所に行ってしまいました」
 と、話します。
 針が立つものでしたからご近所の人にお裁縫を教えながらして生計を立てていたこと、大塩先生や父などのその仲間を何処までも追い詰めていた目明しの親分銀児の影におびえながら、息を詰めるようにして生きていたことなど話します。でも、女を殊更に意識してはいなかったようだったとか、それが女として当たり前だ、普通のことだと思っていたことなども。
 女将も、手を休めて、ふくろう先生のえろう本気な話に耳を傾けています。
 まだ12,3歳の頃、父の友人である大塩先生の高弟である松浦さんから聞いた話をします。
 唐の国の玄宗皇帝と楊貴妃の悲劇を歌にした白居易という人の「長恨歌」があります。その中で、比翼の鳥と連理の枝という、女と男が言い交わした最高の恋の言葉あります。
 男と女は、結局、この比翼や連理に他ならない、強く結びついてお互いに思い合いながら生きていくことになるのだから、男はいいとか女がいいとかと言うことにこだわる必要がない。損だ得だという考え方はせんほうがいいのとちがうのやないか。
 「これをおせんさんに言いたかったのです。それが女将が言った一生懸命と違いますやろか」
 それまでは黙っていた女将は、政之輔の女将と言う言葉を聞いたからかも知りませんが、
 「まあ、ふくろうの先生ったら、わたしという女がいてますのに」
 おほほと、笑いながら言います。そして、「まま、ひとつい」と、徳利を政之輔に差し出しながら、
 「こいさん。恋しいお人に、今度のお琴を聞いてもらえず、張り合いがおへんでしゃろが、しっかり弾いておくれやす。ふくろう先生の分まで、しっかりとあてが聞かせてもらいますよって、安心して弾いておくれやす」
 「おいおい女将、へんなこといわんといてぇな、恋しい人だなんて、そ、そんなんじゃああらしましへんで」
 女将の差し出すお酒を受けながらは政之輔は真顔で言います。そんな政之輔を無視するように、
 「お二人さんはお似合いの比翼の鳥と、もう一つなんといわはりましたかな、何とかの枝でおます。うふふ・・・ごゆっくり」
 と、笑いながら出て行きます。


 
 
 

おせん 50

2008-06-13 08:56:22 | Weblog
 おせんは思いました。
 男の人って何でも自分が好きなことが思うように出来ていいなあ。「女はあかん」と。女の癖にとか、そんなことしたらお嫁にいかれんとか、なんとか喧しく言われて、いつも、我慢しろ我慢しろの連続の中で、身を小さくするようにして暮らしている自分が情けなくもなりました。したいことも勝手には「できしまへん」。女の方が損なのかしらと、うらやましくもあります。
 得々として、自分のこれからしたいことをはっきりと言う政之輔の話を聞いていると、そんな思いがしきりにします。
 「男はんはようおすな、好きなことが何でも出来るよって。女は損どす」
 と、おせん。
 「あ、これはいかん、かんにんどす。自分だけがおしゃべりし」
 と政之輔。
 「でも、女のお人は、おせんさんが言わはるように本当に損でしゃろか。女将さんはどない思われます」
 と、松の葉の女将さんも尋ねます。
 「はい、わてには、ようはわかりしまへんのやけど、・・・・男はンがいいのか、おなごがいいのか。・・・・そんなこというてたら、どないなりますねん。男はンとおなごしかこの世の中にはおらしまへんやろ。男はンの方がよかったかてどないにもなりしまへん。おなごはいつまでかて女子どす。男はンにはに決してなれしまへん。おなごはおなごですさかい。誰が決めたのか分りまへんが、世間で言うおなごの道を行くしかあらしまへんのとちがいますやろか。えろうえらそうに厳しいこと言うようでおますが。・・・すいまへんどす。こいさん、そのお吸い物、うちの自慢の料理だす。熱い内に食べておくれやす。それそれ先生も、はようお食べやす」
 と、二人に、料理をしきりに進めながらいいます。
 「ようはわかりまへんけど、男はンでも、おなごはンでも、一生懸命に生きていかはれば、どっちがいい悪いと言うことではなしに、それでいいのではないのでしゃろか・・・でも、ふくろう先生さすがどす。そやからうちらはみんな好きやねん」
 「えろう難しい話になってきよりましたが、おせんさんは、今度、山越の師匠の桂木の会にお琴を弾くのだそうだす。よかったら女将も聞きにいかはったら」
 先生は上手に話題を変えます。
 「いつですやろ。こんな商売しているさかい。何時でもと言うわけにはいきまへんが、それは是非聞かしてもらいとうおすな」
 
 女将が下がると、政之輔は、又、話し出します。話しべたなのかと思っていたのですが、話し出すと留りません。次々と、話の種は尽きないのでしょうか。長崎の蛇踊りは面白いとか、男も女も髪の毛は黒でなく金色に輝いている人がいるとか、象と言う長い大きな鼻を持った生き物が町の中をのっしのっしと歩るいているとか、聞いたことのない始めて聞く珍しい話ばかりです。特に、長崎に来ているオランダ人は、おなごはンのほうが男の人より大切にされていると聞いて驚きます。荷物は、大抵は、男が持ってあげているという話にも感心しました。
 小半時が過ぎた頃でしょうか、
 「今日は、久しぶりに、よう話し聞いてもらいました。ぼとぼと帰えりまひょ。そこまで送りますよって」
 と、政之輔。
 外は弥生の柔らかな風が吹いています。歩きながら政之輔は、ぽつんといいます。
 「おせんさんと話ししていると、なんか楽しうおます。また、会って聞いてくれはりますか」
 舟木屋近くまで、政之輔は送ります。
 
 
 

おせん 49

2008-06-12 09:40:25 | Weblog
  家に帰って、気になっていた懐にある政之輔からの書付を取り出します。
 よく物語の中で読む、付け文を貰った女の人の気持ちって、こんなものなのだろうかと思い、なんだか顔がちょっと赤らむように思えました。何しろ生まれて初めての男の人からの頂いた手紙だったものですから。
 開いてみると、余り上手だとは思われないような字でしたが、それでも丁寧に書き並べてありました。ちょっと胸の高まりを覚えるような、物語に出てくるようなそんな顔を赤らめるほどものではありません。いとも簡単に
 「急啓、明後日、午の刻、錦町勝報寺前の小料理屋「松の葉」於て、お礼致したく候、必ず御出被下候   ふくろう」
 と、書いてあります。
 「まあ相変わらず一方的やは」と思ったのですが、「来いというのに行かないわけにもいかないやろうな」と思います。丁度、お稽古も、その日はありません。お昼前から「ちょっとでてきます」と言って、家を出ます。
 松の葉というのはどんな料理屋かは分りませんが、あの堅物の先生だからと、言う安心もあったものですから出かけます。
 松の葉に来て見ると、思っていたより案外にこぎれいな粋な感じのするお店です。
 案内を請うと、ここの女将でしょうか
 「どうぞ、ふくろう先生、もう先ほどからお待ちどす」
 と案内してくれます。
 「ふくろう先生。お待ちかねのお人どす。・・・どうぞこちらへ」
 「来てくれましたな。お待ちしており申した。遅くなってしもうたのですが手ぬぐいのお礼です」
 又。例の俄か江戸弁が飛び出します。
 うなぎの蒲焼がこの店の名物だと言うことで何やかにやぎょうさんのお料理がおせんの前に並びます。
 「本当にようこそおいでやす。・・・この堅物なふくろう先生が、女の人にご馳走すると言いはりますねん。そりゃあ、みんな、どんなお人でしゃろかと、楽しみにしていたのどす。隅に置けないふくろうで先生と、皆でお噂していたのです。それが、こんな美しいこいさんが現れてびっくりしてますねん。・・先生、お酒はどうです」
 「今日はそれはなしです。女将、美味しいここの特性かばやきを食べて頂きます」
 と、ふくろう先生。
 女将も下がり、二人きりの食事になります。女将も言うように堅物で、その上、この物言わずがと思っていたおせんですが、ふくろう先生、そうでもないらしいのです。
 医者として自分で考えていること、将来したいことなど熱っぽく語ります。
 香屋と言う苗字から袋と言う苗字に変わった経緯、父が惨殺された大塩平八郎の騒動、シーボルトというオランダのお医者様の話など聞かせてくれます。
 「今、苦しんでいる貧しい人々のために命をも投げ出して救くおうとした大塩先生と父の志を受け継いで、ささやかに医者の仕事をしているのです」
 と、真心を込めて一心にお話になるふくろう先生の話しをおせんはじっと聞き入っております。政之輔という医師の人柄を見るようです。
 「人を助ける」ということは聞いた事がありますが、政之輔さんの父親や大塩先生って、どんなお人だったんだろうとも思います。
 途中で、女将が、何か、又、料理を運んで入ってきます。
 「そうです。この先生えろうおます。とし若のくせに。夜でも構わんで診てくれるさかい。だから、ふくろう先生なのだす。この辺のお人、みんなありがたく思って感謝しておりまんねん」
 「っや、どんでもおまへん。たいしたことおまへん」
 「それ、そこが、又、みんな、先生のええところじゃおまへんか。みんなほれてまんねん」
 

おせん 48

2008-06-11 10:55:37 | Weblog
 「梅ヶ宿をご馳走します」と言った医師政之輔の言葉でしたが、それから五日めに、思わぬ方から声が掛かり、梅ヶ宿を、今年初めて口にすることが出来ました。それはお慶の父親の徳平からでした。お慶の病気平癒を兼ねて天神様にお参りして、その後、「ぶそん」で、ご馳走をするということです。勿論、医師の政之輔も呼ばれていました。
 「本当に、この度は、みなさんには、お慶がえろうお世話になりました。先生には特別にお世話かけました。ありがとうございました」
 徳平の言うお礼の言葉と同時に、出来立ての「梅ヶ宿」が出てきます。早速、里恵は手を出します。「おいしゅうおまっすやろ」と、度々来て知っていたのでしょう、しきりにお餅の由来だのをさも得意げにみんなに話して聞かせ、一人で座を賑しておりました。やがて、里恵とお慶とおせん3人は、近づいてきた桂木の馬場でのお琴の催しについて、徳平や政之輔そっちのけで、話が弾みます。男二人は、ただ、無言で、かしましい娘たちの、取りとめのない、お琴話を眺めるように聞いています。
 「先生、悪うおすな、娘たちが勝手におしゃべりしておす。ちょっと座を替えまひょ」
 小声で耳打ちすると、立ち上がります。
 「おとはん、どこ行くねん」と、お慶は聞きますが「3人でどうぞ、わてらはあちでしょうしょう・・」
 と、右手を口の方にやります。食い気としゃべり気の娘たちは
 「帰りには呼んで・・」と、一向に頓着なしのおしゃべりです。
 徳兵は、折角、若い青年が若い娘たちのすぐ側におりながら、そっちのけで色気も何にも無い自分たちの琴の話に夢中になるなんてと、少々おかんむりです。
 「困りもんどす。脇に、美男子のふくろう先生という立派なお方がおいでどすのに、自分たちのお琴の話に夢中になるなんて・・・先生、ちょいと一杯、あっちでつきあっておくれやす」
 と、あきれています。

 しばらく、別々の二つの場所で、娘たちは近づいてきた琴の催しの話に夢中となって父親や政之輔のことなど眼中に無いように話しています。一方、男達は、主にお慶の父親が聞き役、政之輔がしゃべり役となって、それこそ世間話をしながら、娘たちのかしまし話の終わるのをひたすら待っていました。
 娘たちの話もどうにかけりが付いたのでしょう、立ち上がる気配が男達の座にも伝わってきました。
 「長い話でおすな。まあ、先生、これからもよろしくお頼み申します。やっと腰が上がったようどすな」

 おせんは履いていた足袋の調子が足にぴったりとなじんでないように思えたので、その場で履き直します。そのため、お慶たち二人よりちょっと後れて座敷を出ます。念のために忘れ物は無いかなと一渡り部屋の中を眺めて、障子を静かに閉め、ちょっと洒落た上がり框に屈みこんで草履に手を掛けた時です。
 「これ読んでください。おせんさんに私のお礼をしますから。時と場所をこれに書いとります。お願いどす」
 と、膝の上に投げ置くようにして、これも、また、ぶっきらぼうに怒ったように政之輔は言うと、さっさと、おせんの返事も何も聞かずに、表に駆け出るように出て行きます。
 「なんでっしゃろ、変なお人・・・・」
 と、驚いているおせんでしたが、その場に、その紙切れを、捨てることも出来ず、懐にねじ込むようにして表に急ぎます。
 一人になって後から考えたのですが、どうして、あの場に政之輔が何時どのようにして来ていたのか分りません。本当にあっという間の出来事のようでした。

誰でもよかった。その2

2008-06-10 09:21:37 | Weblog
 「歩行者天国殺人事件」にうんざりして話したくもありませんが。余りにもむかつき過ぎますので、もう少々私の思いをノーベルことにします。

 今朝の新聞によると、内閣官房長官が、この事件についての談話として、
 「銃刀法の改正をして規制を重くするようにしたい」
 とノーベタと言う。
 まあ、それも大切なことかもしれませんが、今、この時点で、内閣を代表する人が使うにふさわしい言葉でしょうか。もう少しはその対策について、幅広く真剣みのある談話があってもいいのではと思いました。法律の改正についてなどは、その後後の話ではないのでしょうか。
 「日本政治がお粗末だ」と言われても仕方ないような談話です。
 「町村さんよ、しっかりせんか」
 と、叱り付けたい気分になります。
 ノーベルだけであっても、せめて、もっとしっかりノーベルであって欲しいのです。国民は。
「ノーベルショウ」を、今回はと期待したのですがその期待もむなしく終わりました。
 みんな分らんのですから、どうすればいいのか考えるようなコメントにでもしたらと思ったのですが。期待はずれでした。
 大宅さんみたいに、一億総懺悔してみようとでも言って欲しかったな。
 それほど救いようのない日本なのでしょうか、今は。

今、「誰でもよい」こんな言葉が散乱しています。」

2008-06-09 10:39:23 | Weblog
 又、へんてこりんな事件が起きました。言いたくも見たくもないのですが、ちょっと、この事件について、吉備の国から、評論家風に、それについて何も解決方法の糸口も持っていないのですが、言わせて頂きます。


 テレビで(今朝は新聞がありません)「誰でもよかった」と、言う言葉が、またまた、派手派手しく報道されています。
 私の住む岡山でも、つい最近、岡山駅での「線路への突き落とし殺人事件」が起きたばかりです。「誰でもいい、殺したかった」こんな言葉が人間の心の中にあるなんて、遠い遠い物語の世界の中にだけあるもののように思っていました。だからどうしても信じられなかったのですが、でも、ごく身近な実際に乗り降りしていた現実の場所で起きたのです。物語の世界の中のことではありません、現実の場での事件だったのです。驚きもひとしおでした。
 考えてみれば、今の世の中、みんな裕福に快楽いっぱいのある生活を送って、一件幸福そうに見える社会のはずなのですが、どうして、畜生にも劣る下劣な「人殺し」の心が人間の心の中に生まれるのでしょうかね。
 昨日にみたいに、一人で、見知らぬ人を、「誰でもよかった」と、7人も8人も殺すということが出来るのでしょか。無防備な自分となんら関係のない人を、何の予告もなしに通りすがりに殺害することが出来るのでしょうか。人の世も終わりでしょうか。地球が全滅まで終わらないかのような感じがします。末世でしょうかね。
 みんな自分勝手に、てんでに、今、自由を謳歌しています。ただ見かけだけ面白かりゃあ、また、金さえあれば、儲かりさへすれば「それでいいのだ」「それが人生の全部だ」と言うような風潮か、日本人の生活に成り切ってしまっているようにすら思われます。その追求こそが自分のファションだ、アイデンティテーだと、そっれこそが、本当の人間の真の「自由・平等」なのだと思って暮らしているのではと思えます。
 三菱でも雪印でも赤福でも船場吉兆でも、そこら辺りに何処にでも、道ばたの石ころのように転がっています。(今は、この石ころは捜そうと思ってもめったには転がってはいませんが)
 昨日の歩行者天国殺人事件も、これらのものと同一の事件として考える必要があるのではないでしょうか。
 評論家諸氏の論評言葉も毎回同じことが繰り返されています。
 「信じられない。もっと社会全体で、家庭でも政治でも教育でも経済でも、見つめ直すことが大切だ」
 と。
 そこからは、どう見つめなおすのか、その対策は一つも見つかりません。同じことが、ただ、時間の差異があるというだけて、何回も何回も繰り返されています。
 これといったその対策は、専門の先生にも具体的なものは何一つ持ち合わせがないように思えます。それぐらいみんな憂慮しているような顔をして、何やかにやと、単に、述べるだけは理屈っぽいことを、今書いている私のこの文のように、いやに長ったらしく述べてはいますが、ただ述べているだけに過ぎません。
 だれもが的確な対策は持ち合わせてないのではと思われます。もし、その方法があれば、これはきっとノーベル賞の「ノベルデショウ」ぐらいはもらえるのではと。

 冗談はさておき、昨日も、偶然、インターネットで、こんなものを平気でよくも載せることが出来るものだと思うような写真付のエログロナンセンスナものが目に飛び込んできます。小中学生等未成年者でも自由に目に出来ます。でもそれが、彼らの成長にいい影響を与えるはずがありません。「言論の自由だ」と言いますが、それでいいのでしょうか。
 それがなくなったとしても「誰でもいい」と言う考え方はなくはならないでしょうが。
 滅び行く憐れな動物なのでしょうか、人間は。

 
 

おせん 47

2008-06-08 08:29:58 | Weblog
 おせんは差し出された薬の匂いがぷんとする油紙の包みをそのまま袂の中に押し込み、もう少しゆっくりと歩いてくれはってもいいのでは、と、思いながら、黙々と歩む政之輔と名乗る若い医師の後に付いていきます。
 袋医療処と、書かれた古ぼけた看板のある門を入ると、直ぐ玄関があります。
 「しばらく待っておくれやす」
 と、すたこら入っていきます。入れ違いに職人風のお年寄りの人が腰に手を当てながら、じろりと玄関に佇んでいるおせんに目をやりながら出てきます。薬の匂いでしょうか、その男の人は残して行きました。
 しばらくして
 「これを食事の後にあげるように家の人に言っておいてください。2、3日もしたらよくなると思いますから」
 と、お薬でしょうか、赤い包み紙に入っている袋をおせんに渡します。
 「あの時は助かりもうした。一度、そのお礼と思っておるのどすが、今日の店、ぶそんのあの梅が宿でもおごりますよって、来てください」
 又、何時頃とも言わないで、平気で、これも、何かぶっきらぼうに、本でも読んでいるのかと思われるような言い方です。
 「そんなん、かましまへん。気にしないでおくれやす」
 と、おせんは鄭重に断ります。
 「一度お礼をさせておくれやす。そんんこと言わんと、お願いするよってに。約束違えた罰ですよって」
 と、これは先ほどの言い方とはずいぶんと違って、丁寧で誠に柔らかに頼みます。
 その余りにも違った前と後ろの言い方に、おせんは、また、あの例の「くすん」という含み笑みを浮かべます。この若い先生は、又、どうしてかなと、ちょっと首を傾けます。
 「あっ、そうや。又、忘れておった。何時頃がよろしゅうおます。女の人と話すのは余り得意じゃあないのどす。・・・昔から」
 この昔からと言う先生のちょこんと頭に手をやる仕草にも、又、おせんは何やら可笑しさがこみ上げてきます。「くすん」と、三度目の笑みを浮かべます。
 結局、「頼みます」「いえ、そんなん」と言う押し問答が2、3回繰り返されましたが
 「又、明日にでも、あの娘さんの容態を診てあげねばと思いますので、その時にでも連絡します」
 と、言う若い医師に見送られて、何か心が、ここに来る時とは随分違って、どうしてかは分らないのですが、急に晴れ晴れとしたように思われ、北風に背中を押されながら道の真ん中を通って、とんとんと例の手渡された袋を振り振り、お慶の家に急ぎます。懐に入れてあるあの袋のことなどは頭の中から消え去っていました。
 

 

おせん 46

2008-06-07 09:29:04 | Weblog
 若い医者は小脇に抱えていた包みを解いて何か探しているようでした。その中から取り出した黄色っぽい油紙の小さな包みをおせんの前に差し出します。
 「これがあの時の手ぬぐいです。御礼が遅くなったのですが、ありがとうございました」
 おせんは、それを受け取ってもいいのかどうかも分りませんが、往来の真ん中に立ち止まっていることも出来ず、なんとなく受け取りました。
 「ちょっとそこで、私の話を聞いてください」
 と、これまた、ちょっとばかりえらそうに言うと、歩き出します。やがて、大通りから少し入った所にあるお宮さんか何かの小さな森へ通じる道に曲って進みます。鳥居をくぐると如月の寒さに身がぶっると振えます。
 「ここで聞いてもらいます。・・・あなたには大変失礼なことをしたなと、あの時からずっと思っていました。だから、あれ以来、いつかこの手ぬぐいを、必ず、あなたに返さねばと思って持ち歩いているのです」
 短い日の光がもう大分西に傾きかけています。それから、一息ふと吐き出すように言うのでした。
 「夕立の次の日の朝から、借りた手ぬぐいを返しに行かなくてはと、気になっていました。でも、何時持って行くとも、言わなかった自分不手際に気付いたのですが、今更どうすることも出来まへん。兎も角も、あの時刻にと思って、出かけようとしたのです。が、その時、間が悪いというのか、急に大怪我をした職人風の人が駆け込んで来ました。生憎、叔父もおらず、私一人だったものですから、気にはなっていましたが、その怪我をした人の処置に随分と手間取り、終わった時はもう日もとっぷりと暮れた頃でした。でも、もしやと思い、急いで出かけてはみましたが、当たり前なことではあったのですが、山門には誰もいません。いるはずもありません。・・・・この大うそつきめ、と、怒っているだろうなと、あなたの顔が覗きます。西の空にある鎌のような夏の三日月までもが、怒っているように睨みつけています。その怒った三日月さんに見られないように道の端っこの方を通って帰りました。それがあなたに対する小さなお詫びにでもなればと」
 それだけ言うと、また、大きく息を吸い込みます。続けて、
 「いつか必ず会える、その時に返そうと、今日までこの包みの中にしまいこんでいたのです。・・・今日、偶然、あなたにあんな所でお会うことができました。これで、やっと肩の荷がおりました。やれやれどす。・・あ、そ、そうです。袋政之輔といいますねん。この辺りでは、どうしてかは知らんのんどすが、ふくろうと、あだなされておるらしいんどす」
 と、言ったかと思うと、「薬がありますよってに早よう行きまひょ」と、すたこら先に歩みだします。
 その袋と名乗った若い医者が、一人で自分の話して、そして、自分一人で合点して、おせんの言う暇なんてありません。おせんは
 「ふん、いい気もんだす。本当にふくろうだわ。聞く耳なんか持ってないみたいやは」
 と、内心で思います。

おせん 45

2008-06-06 11:03:48 | Weblog
 おろおろしているおせんたちの所に、先ほどの店のご亭主が先に立ってお医者さんでしょうか若いお人を連れて上がってきました。
 「先生この人どす。見てやってくれはりますか」
 その人の顔を見て、おせんはびっくりします。その若い医者も病人のお側にいるおせんを見て、これまたびっくりしたようです。
 「あ、あなたは」
 と、殆ど同時に、顔をお見合わせ、はっとします。
 「あ この人、どうしてここに」
 と、こんな所でこのお人に逢うなんてと、なんだか気恥ずかしいような気まずいような思いをおせんは感じます。
 この店のご亭主と共に現れた若い医者も、お目の前に突如として現れたおせんに何か言いたそうに、これも、また、気まずそうにしていたようでしたが、兎も角も、今は病人をまず診ることが一番だと思ったのか、手際よくお慶の容態を診ます。頭に触ったり喉の奥を見たりしていましたが、最後に、お慶の左の手首を持ちながら言います。
 「今、はやりの単なる風邪だす。暖かいものをしっかり食べて、2、3日ゆっくりしていたら直るさかい。お薬あげます。だれぞ取りに来てはもらえまへんやろか。・・あ、あなたでも来てくれまへん」
 おせんを名指します。名指しされたおせんは、まだ、「この人、自分を覚えてくれていたのだろか」と訝っていましたが、そう言われては、承知せざるをえません。おせんが頭を軽く一振り、下げたのを見届けてから、お店のご亭主に籠の手配や、里恵には家まで付き添いをすることなど指示します。
 おせんに
「あなたは待っていてくださいな」
 と、言ってから、又、奥に入って行きます。
 直ぐ籠もやってきました。
 折角の梅ヶ宿も、こんな騒動で口にすることは出来なかったのですが、「まだ、桜までは当分はこさえておりますよって」と言う、ご亭主に励まされるようにして里恵に付き添われたお慶を乗せた籠はお店を出ていきます。
 籠が遠ざかっていく後ろを眺めていたご亭主は、思っていたより娘ごの病が軽かったからなのでしょうか、送り出して安心したからなのでしょうか、やおら
 「病人の籠も過ぎけり梅ヶ宿、と、言うのはどないなもんでっしゃろ」
 とか、なんとか、軽い独り言を言って中に入っていかれます。何のことやら分らないおせんは、ぽかんとそれを聞きながら、お慶の籠を、まだ、見送っていました。
 それからしばらくして、小脇に例の小さな包みを抱えてあの若い医師が出てきます。店先には、お慶の籠を見送ったままのおせんが、先ほどから待っていました。ご亭主もそのお上さんでしょうかお二人ご一緒に出て来られて慇懃にこの若い医者に挨拶をされています。一言二言、まだ、お店のお上さんに何やら言っていましたが「ごめん」と、ややえらそうに申されて、おせん向かって、
 「待っていただいて恐縮ですな」
 それまでの大坂言葉ではない、特別の俄江戸侍のような言葉使いで言うと、さっさと歩き出します。
「歩きながら話しまひょう。言い訳になるようで言いにくい話ですが。・・・あの時の宋源寺の手ぬぐいは、今もちゃんと、ここに持っています。ちょっと待ってくださいな」
 と、言いながら、道端のほとりにある「きょうへ」と言う小さな石の道標の上で、小脇にかかえていた包みを解きはじめます。
 「この人何するつもりかしら」と、おせんは、それでも立ち止まらないわけにものゆかず、その人の後ろで、しばらく待っていました。 

 

おせん 44

2008-06-05 10:29:43 | Weblog
 来春、如月の満開の桜の元で催される、桂木の馬場での師匠の琴の催し準備のために、秋口から練習やら何やらと、おせんもお忙しく立ち回っていました。そのためばかりではなかったのですが、一時でしたが小さな乙女心をくすぐって通り過ぎたあの真夏の出来事なんかはどこかへ飛んでいって、すかりおせんの記憶から消えていました。
 立春も過ぎ雨水も近くなったある日のことです。朝から本番さながらの三弦や尺八の他の楽器との弾き合わせが行われました。
 おせんの琴仲間の里恵が、その日のお稽古が終わってから、 
 「今が一番の見ごろ時そうだす」
 お慶にも一緒に天神さんの梅を見に行こうと、しきりに誘います。
 ちょっと遠回りして帰るだけですからと、3人で出かけます。その時分から、お慶の顔色がなんだか悪いのではと、おせんには気になっていたいたのですが、本人も行く気になっていたものですから、そのまま出かけます。里恵の言うとおり天神さんの梅は今が満開で、大勢の見物客で賑わっていました。
 一通りの見学を済ませて、里恵がニヤニヤしながら言います。
 「さあてっと、もう一つ見るものがおますねん。これから行くよってに、ついてきてぇ」
 と、さっさと天神さんの前にあるお汁粉屋さんのお店に入り込みます。
 「おじさん、梅ヶ宿3人分、あんぎょうさんかけといてや、お願いどす」
 と、一人で何もかもさっさと注文します。梅ヶ宿は、この店の梅の時期だけに作っている特製のお餅なのです。
 近頃、このお店の梅ヶ宿がしきりに人々の間に評判になっているのをおせんも知ってはいました。先ほどの梅見の時の里恵の早足を思いながら、「本命はこの梅ヶ宿のお餅が計略でおしたのか」と、おせんは思いました。
 お慶は先ほどからどうしたことか、何にも言わずに、なんだかとても歩くのも大儀そうに付いて来ます。それが、お店のお座敷についたとたんに、それこそどたりと座り込みます。
 「どうしはったんお慶さん」と、おせんはお慶の手を取ります。そのままお慶は、おせんの腕の中へぐったりと倒れ込みます。
 「まあ、身体がこんなに熱い、どうしはったん」
 梅ヶ宿どころの話ではありません。里恵もどうしたらいいかも分らず、ただうろうろとするばかりです。
 お店のご亭主も目ざとく、この3人を見つけて飛んできます。
 さっと頭に手を遣ります。さすが年の功です。
 「こらいかん。えろう熱が高こうおます。お医者さんに・・・・」
 と言うと、そこら辺りにある机だのを片隅に寄せながら、
 「あ、お前はん、ここへ、その娘はん横にしてあげてえな。ちょうどええ、今、奥にふくろうの先生がお出でどす。診てもらいまひょ」
 と、奥に飛ぶようにひこっます。
 横になったお慶は目をつぶったまま、でも、とても苦しそうに大きく息を弾ませています。側にいるおせん、里恵の二人は、どうしたらよいのか、とっさの見当もたたず、ただ、おろおろと見守るばかりでした。

おせん 43

2008-06-04 09:26:04 | Weblog
 おせんは、宋源寺の山門の所に 昨日と同じ時刻頃に「もしや」と思い行ってみましたが、まだそこには誰も来てはいません。まして、昨日の青年の姿などあろうはずもありませんでした。
 それでも、なお、「もしや。もしや」と、思いを繰り返しながら、半時ぐらい、そこに佇んでいます。通りすがりの人が怪訝な顔をして通り過ぎたりもします。
 「いややは、どないなってんね」
 残暑も否応なしに降りかかってきます。生暖かい風が、一吹き、おせんの顔を撫でて通り過ぎたりもします。
 「風をだに」と思った万葉人ほどではないにしても、何か乙女の胸に期するものがなかったかと言うと嘘になるのですが、「来むとし待たば」というほどのことでもないので、家に帰る決心がつきました。
 そうなると、昨日の爽やかな夏風に比べて、今日のじりじりと身体を焼き尽くすようお日さんに、何か文句もの一つでも言いたいような、八つ当りでもしたいような気分になるおせんです。
 そんなお日さんの顔が見たくないというわけではありませんが、昨日とは違って、家並の端の日陰を追って足早に歩きます。日陰のない橋の袂では道端にある小石を子供もみたいに蹴り上げます。川面に小さな波紋が幾重にも流れます。その水面のきらきらと照り輝く真砂のような光を見て、
 「うちってあほねん・・・なにしとんねん」
と、小声で自分に言い聞かせます。
 橋を渡ると、それからは、又、昨日のように往来の真ん中に出て、ゆっくりと歩いて帰ります。大分西に傾いたお日さんは、それでも、なお、昼の光をじりじりと強く投げかけています。
 道の真ん中を、このじりじりと輝きながら西に傾いていくお日様を自分の胸で押し込むように歩いていると、今までにあった胸のなんだか訳の分らないような自分で自分を追い込むようにして生まれたもやもやが、その夕陽にじりじりと胸の中で焼かれつくされ、ついさっきまでの気分とはまるで違った、息をそれこそ胸の奥までいっぱいに吸い込んだ時のようなえもいわれぬ爽快な気分にしてくれるたように思われます。
 知らず知らずの内に、「明日も天気にしておくれ」と、子供の時分に母と手を繋ぎながら歌った歌が喉をついて出てきます。

あせん 42

2008-06-03 10:03:35 | Weblog
 お日様が、宋源寺の玄関の衝立障子の中の、大きな目をいっぱいに見開いて、そこに立つ人を睨みつけている怖いあの赤い達磨さんのようには、ちきれんばかりに大きくなって、それこそ道の両側にごちゃごちゃと並んでいる家並やお寺さんの見上げるばかりの大きな屋根や塔を、道端に置いてある防火小屋の屋根やポツリポツリと水玉模様のように並んでいる先ほどの夕立がこしらえた道の水溜りまの水までを、驚くような真っ赤な色に染めながら、西に傾いています。
 一方、黒雲に覆われて薄暗い怖いような色をしている遠い東の空からは、まだ時折、ごろごろと幽かに消え入りそうに轟いている雷の音が聞こえてきます。
 「明日も天気にしておくれ」と、沈みゆくお日様めがけて、子供の時に、投げ上げた赤い鼻緒の下駄が、突然に、目の中に浮んできます。「はんちゃんはどうしているやろか。はなちゃんは、としちゃんは、やっちゃんは」と、一緒に遊んだ幼友達の顔が、次々と、浮んできます。
 「いんでいかはるお日さんって、どうしてあんなにきれいなのでしゃろ。・・・・こんなお日さん見ったんは何年振りでっしゃろ?」
 久しぶりに子供の頃の気分に浸りながら道の真ん中を家路へとゆっくりと歩みます。
 「明日、何時頃行けばいいのやろう。無責任なお人?・・・・案外、あの人も、あんな手ぬぐいのことななんか、明日になればきれいに忘れてしまい、そのままになってしまうのでは」とも思うのですが、行かないのもななんだか悪いようなそんな思いも胸に浮かびます。
 その夜は、胸のときめきということではないのでしたが、今日の夕立の雨宿りの偶然やその後の夕陽の沈みかけた道を、あっという間に「明日返します」と、手ぬぐいを懐の中にぐいと押し込んで、足早に、黒い小さな包みを小脇に抱えて、それこそお日さんの中に吸い込まれるように駆け抜け、消えるように行ってしまった若い男の人のことや、あれやこれやと考える17歳の乙女の時が流れます。 

おせん 41

2008-06-02 10:23:17 | Weblog
 ようやく小降りになった中を、その若い男は、先を急ぐのでしょうか、おせんの貸した手ぬぐいを手にしたまま、
 「明日にでも洗って返しますよって、また、ここに来てください」
 と、ぶっきらぼうに言い残しながら、おせんが「そんなことかましまへん」と、言おうと思ったその時には、もう小雨になった雨の中に消えて行きました。
 「なんて気ぃのお早いお人でっしゃろ」と、おせんは足早に遠ざかって行く雨中の元気よい若者の後姿をしばらくあきれたように眺めていました。それを契機に、雨宿りの他の3人も、このおせんたちの姿を見ながら、それぞれ無言で、左、右へと立ち去ります。
 小さな雨はまだしょぼしょぼと降っています。遠い東の空の彼方から、時々思い出したように、まだ、ごろごろと、か細い雷の響きだけが聞こえて来ます。あれだけいっぱいに空を覆っていた黒雲も、何時の間にやら東の空へと消え去り、西の空には、真っ赤に染まった真夏の夕日が雲間から顔を覗かせて、辺りを夕焼け色で包み込んでいます。大きな虹も北の空から南にはっきりと姿を現しています。優しい夕立風も頬を撫でながらすーっと吹き来ます。
 「だから、夏は大好き」と、おせんは、空一杯に架かったその虹を見上げ、後れ毛を掻き揚げながら、独り言のようにつぶやきます。しばらく、誰もいなくなった宋源寺の山門に、一人で佇んでいました。
 「明日来いって、いつでしゃろか」
 なんとなく気になってはいましたが、「あげてもよか」と、気楽になって、夕焼け空の広がって行く道を、夕立後の風のように晴れ晴れしい気持ちになって家に向かいます。

おせん 40

2008-06-01 10:50:21 | Weblog
 左手で着物の衿を押さえながら、きっとなって天井のほうを向いたまま、
 「今、お園さんは、比翼といいはりました。ひょっとして楊貴妃の比翼の鳥のことですやろ?連理の枝と一緒に出てくる。・・・」
 と、一段と溢れ出る涙を払おうともしないで話す、おせんの短い夏の夜の長い長い物語が始まります。
 
 もうかれこれ十年になろうとしているのですが、大坂の町人達の飢饉を救済しようとして起した、町奉行与力の大塩平八郎と言うお人の民乱がありました。その大塩と共に反乱に加わったものも300名以上もいて、多くは幕府によって無残にも惨殺されています。
 その中に、香屋楊一郎というお役人もいました。その楊一郎の一人息子、政輔は、母の実家に戻っていたためにどうにかこの母子の命は助かりました。でも、家族への詮索も容赦なく厳しく行われます。仕方なく香屋という苗字も、母方の苗字袋に変えて、この大塩事件から隠れるように、ひっそりと息を潜めて暮らしていました。
 母方の叔父が薬師(くすし)をしていましたので、そのまま、そこで手伝いをしておりました。4、5年たった頃でしょうか、叔父の進めもあったのでしょうシーボルト事件の後の長崎に4年間遊学し、その後、また、大坂に戻り叔父の手伝いをしていました。
 その香屋、今は袋と名乗って、名前も政之輔と変えていました。その政之輔とおせんが出会ったのは、去年の立秋が過ぎたある日の猛暑の午後です。
 急な夕立で、古広町の宋源寺の山門に雨宿りしていました。雷がぴかっと光ったと思ったら、ひゃっとか何とか言って、小さな包みを小脇に抱えた若者が飛び込んできます。体も着物もびしょびしょです。顔から頭から雫が滴り落ちています。その顔を、これも雫のいっぱ垂れている袂で、拭い拭いしていました。余りにもそれか気の毒に思えて、とっさに、おせんは持っていた手ぬぐいを
 「これ、お使いなはれ」
 と、差し出します。
 その人は、そこにおせんがいたということに始めて気が付いたのか、
 「すいまへん。いや、け、けっこうです。・・・こんな雨ぐらいのもんには負けてはおれへん。・・・気ぃつこうてもらわんかてよいのです」
 「そんな強がりをいわへんと、使って。髪の毛も、なんもかんも雨だらけでおす」
 と、押し付けるように渡すおせんです。
 若いお武家風の男の人は、それでも、なお、遠慮そうにしていましたが、おせんの強引さに負けてしまったのか、それとも、乾いた手ぬぐいに引き付けられたのかは分りませんが、手渡された手ぬぐいで、頭から流れ落ちる雨の雫をふき取りながら、
 「急な夕立です。軒端がここらあたりには少くのうて、ここまでやっとたどり着けましたのや。ありがとうございました」
 と、慇懃に頭を下げます。その前に下げた頭からぽつんと雫が垂れて腰に差してある若者の小さな刀の上に落ちます。目ざとく、それを見つけたおせんは「くすん」と、口がほころびます。若者には、それがどうしてかわからないのか、怪訝な顔でおせんを見ます。
 雨脚は益々激しさを増してきます。その内、又一人の旅人でしょうかびしょぬれになりながら駆け込みます。雨が通り過ぎるまで、この山門は、結局、5人の雨宿りとして軒を貸しておりました。