私の町 吉備津

藤井高尚って知っている??今、彼の著書[歌のしるべ]を紹介しております。

おせん 46

2008-06-07 09:29:04 | Weblog
 若い医者は小脇に抱えていた包みを解いて何か探しているようでした。その中から取り出した黄色っぽい油紙の小さな包みをおせんの前に差し出します。
 「これがあの時の手ぬぐいです。御礼が遅くなったのですが、ありがとうございました」
 おせんは、それを受け取ってもいいのかどうかも分りませんが、往来の真ん中に立ち止まっていることも出来ず、なんとなく受け取りました。
 「ちょっとそこで、私の話を聞いてください」
 と、これまた、ちょっとばかりえらそうに言うと、歩き出します。やがて、大通りから少し入った所にあるお宮さんか何かの小さな森へ通じる道に曲って進みます。鳥居をくぐると如月の寒さに身がぶっると振えます。
 「ここで聞いてもらいます。・・・あなたには大変失礼なことをしたなと、あの時からずっと思っていました。だから、あれ以来、いつかこの手ぬぐいを、必ず、あなたに返さねばと思って持ち歩いているのです」
 短い日の光がもう大分西に傾きかけています。それから、一息ふと吐き出すように言うのでした。
 「夕立の次の日の朝から、借りた手ぬぐいを返しに行かなくてはと、気になっていました。でも、何時持って行くとも、言わなかった自分不手際に気付いたのですが、今更どうすることも出来まへん。兎も角も、あの時刻にと思って、出かけようとしたのです。が、その時、間が悪いというのか、急に大怪我をした職人風の人が駆け込んで来ました。生憎、叔父もおらず、私一人だったものですから、気にはなっていましたが、その怪我をした人の処置に随分と手間取り、終わった時はもう日もとっぷりと暮れた頃でした。でも、もしやと思い、急いで出かけてはみましたが、当たり前なことではあったのですが、山門には誰もいません。いるはずもありません。・・・・この大うそつきめ、と、怒っているだろうなと、あなたの顔が覗きます。西の空にある鎌のような夏の三日月までもが、怒っているように睨みつけています。その怒った三日月さんに見られないように道の端っこの方を通って帰りました。それがあなたに対する小さなお詫びにでもなればと」
 それだけ言うと、また、大きく息を吸い込みます。続けて、
 「いつか必ず会える、その時に返そうと、今日までこの包みの中にしまいこんでいたのです。・・・今日、偶然、あなたにあんな所でお会うことができました。これで、やっと肩の荷がおりました。やれやれどす。・・あ、そ、そうです。袋政之輔といいますねん。この辺りでは、どうしてかは知らんのんどすが、ふくろうと、あだなされておるらしいんどす」
 と、言ったかと思うと、「薬がありますよってに早よう行きまひょ」と、すたこら先に歩みだします。
 その袋と名乗った若い医者が、一人で自分の話して、そして、自分一人で合点して、おせんの言う暇なんてありません。おせんは
 「ふん、いい気もんだす。本当にふくろうだわ。聞く耳なんか持ってないみたいやは」
 と、内心で思います。


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