私の町 吉備津

藤井高尚って知っている??今、彼の著書[歌のしるべ]を紹介しております。

今、「誰でもよい」こんな言葉が散乱しています。」

2008-06-09 10:39:23 | Weblog
 又、へんてこりんな事件が起きました。言いたくも見たくもないのですが、ちょっと、この事件について、吉備の国から、評論家風に、それについて何も解決方法の糸口も持っていないのですが、言わせて頂きます。


 テレビで(今朝は新聞がありません)「誰でもよかった」と、言う言葉が、またまた、派手派手しく報道されています。
 私の住む岡山でも、つい最近、岡山駅での「線路への突き落とし殺人事件」が起きたばかりです。「誰でもいい、殺したかった」こんな言葉が人間の心の中にあるなんて、遠い遠い物語の世界の中にだけあるもののように思っていました。だからどうしても信じられなかったのですが、でも、ごく身近な実際に乗り降りしていた現実の場所で起きたのです。物語の世界の中のことではありません、現実の場での事件だったのです。驚きもひとしおでした。
 考えてみれば、今の世の中、みんな裕福に快楽いっぱいのある生活を送って、一件幸福そうに見える社会のはずなのですが、どうして、畜生にも劣る下劣な「人殺し」の心が人間の心の中に生まれるのでしょうかね。
 昨日にみたいに、一人で、見知らぬ人を、「誰でもよかった」と、7人も8人も殺すということが出来るのでしょか。無防備な自分となんら関係のない人を、何の予告もなしに通りすがりに殺害することが出来るのでしょうか。人の世も終わりでしょうか。地球が全滅まで終わらないかのような感じがします。末世でしょうかね。
 みんな自分勝手に、てんでに、今、自由を謳歌しています。ただ見かけだけ面白かりゃあ、また、金さえあれば、儲かりさへすれば「それでいいのだ」「それが人生の全部だ」と言うような風潮か、日本人の生活に成り切ってしまっているようにすら思われます。その追求こそが自分のファションだ、アイデンティテーだと、そっれこそが、本当の人間の真の「自由・平等」なのだと思って暮らしているのではと思えます。
 三菱でも雪印でも赤福でも船場吉兆でも、そこら辺りに何処にでも、道ばたの石ころのように転がっています。(今は、この石ころは捜そうと思ってもめったには転がってはいませんが)
 昨日の歩行者天国殺人事件も、これらのものと同一の事件として考える必要があるのではないでしょうか。
 評論家諸氏の論評言葉も毎回同じことが繰り返されています。
 「信じられない。もっと社会全体で、家庭でも政治でも教育でも経済でも、見つめ直すことが大切だ」
 と。
 そこからは、どう見つめなおすのか、その対策は一つも見つかりません。同じことが、ただ、時間の差異があるというだけて、何回も何回も繰り返されています。
 これといったその対策は、専門の先生にも具体的なものは何一つ持ち合わせがないように思えます。それぐらいみんな憂慮しているような顔をして、何やかにやと、単に、述べるだけは理屈っぽいことを、今書いている私のこの文のように、いやに長ったらしく述べてはいますが、ただ述べているだけに過ぎません。
 だれもが的確な対策は持ち合わせてないのではと思われます。もし、その方法があれば、これはきっとノーベル賞の「ノベルデショウ」ぐらいはもらえるのではと。

 冗談はさておき、昨日も、偶然、インターネットで、こんなものを平気でよくも載せることが出来るものだと思うような写真付のエログロナンセンスナものが目に飛び込んできます。小中学生等未成年者でも自由に目に出来ます。でもそれが、彼らの成長にいい影響を与えるはずがありません。「言論の自由だ」と言いますが、それでいいのでしょうか。
 それがなくなったとしても「誰でもいい」と言う考え方はなくはならないでしょうが。
 滅び行く憐れな動物なのでしょうか、人間は。

 
 


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