私の町 吉備津

藤井高尚って知っている??今、彼の著書[歌のしるべ]を紹介しております。

おせん 44

2008-06-05 10:29:43 | Weblog
 来春、如月の満開の桜の元で催される、桂木の馬場での師匠の琴の催し準備のために、秋口から練習やら何やらと、おせんもお忙しく立ち回っていました。そのためばかりではなかったのですが、一時でしたが小さな乙女心をくすぐって通り過ぎたあの真夏の出来事なんかはどこかへ飛んでいって、すかりおせんの記憶から消えていました。
 立春も過ぎ雨水も近くなったある日のことです。朝から本番さながらの三弦や尺八の他の楽器との弾き合わせが行われました。
 おせんの琴仲間の里恵が、その日のお稽古が終わってから、 
 「今が一番の見ごろ時そうだす」
 お慶にも一緒に天神さんの梅を見に行こうと、しきりに誘います。
 ちょっと遠回りして帰るだけですからと、3人で出かけます。その時分から、お慶の顔色がなんだか悪いのではと、おせんには気になっていたいたのですが、本人も行く気になっていたものですから、そのまま出かけます。里恵の言うとおり天神さんの梅は今が満開で、大勢の見物客で賑わっていました。
 一通りの見学を済ませて、里恵がニヤニヤしながら言います。
 「さあてっと、もう一つ見るものがおますねん。これから行くよってに、ついてきてぇ」
 と、さっさと天神さんの前にあるお汁粉屋さんのお店に入り込みます。
 「おじさん、梅ヶ宿3人分、あんぎょうさんかけといてや、お願いどす」
 と、一人で何もかもさっさと注文します。梅ヶ宿は、この店の梅の時期だけに作っている特製のお餅なのです。
 近頃、このお店の梅ヶ宿がしきりに人々の間に評判になっているのをおせんも知ってはいました。先ほどの梅見の時の里恵の早足を思いながら、「本命はこの梅ヶ宿のお餅が計略でおしたのか」と、おせんは思いました。
 お慶は先ほどからどうしたことか、何にも言わずに、なんだかとても歩くのも大儀そうに付いて来ます。それが、お店のお座敷についたとたんに、それこそどたりと座り込みます。
 「どうしはったんお慶さん」と、おせんはお慶の手を取ります。そのままお慶は、おせんの腕の中へぐったりと倒れ込みます。
 「まあ、身体がこんなに熱い、どうしはったん」
 梅ヶ宿どころの話ではありません。里恵もどうしたらいいかも分らず、ただうろうろとするばかりです。
 お店のご亭主も目ざとく、この3人を見つけて飛んできます。
 さっと頭に手を遣ります。さすが年の功です。
 「こらいかん。えろう熱が高こうおます。お医者さんに・・・・」
 と言うと、そこら辺りにある机だのを片隅に寄せながら、
 「あ、お前はん、ここへ、その娘はん横にしてあげてえな。ちょうどええ、今、奥にふくろうの先生がお出でどす。診てもらいまひょ」
 と、奥に飛ぶようにひこっます。
 横になったお慶は目をつぶったまま、でも、とても苦しそうに大きく息を弾ませています。側にいるおせん、里恵の二人は、どうしたらよいのか、とっさの見当もたたず、ただ、おろおろと見守るばかりでした。