私の町 吉備津

藤井高尚って知っている??今、彼の著書[歌のしるべ]を紹介しております。

執念の物造りー宮大工・小川三夫の世界

2008-06-29 09:05:50 | Weblog
 わが町吉備津の普賢院からのご案内を頂き、昨日、倉敷芸文館での「高野山真言宗備中青年教師会」主催の文化講演会に参加させて頂きました。
 正直言って、こんな会が催されること事態に驚きを隠せませんでした。昨今、お寺さん、いや、仏教と言うと、ただ、葬式だけの形式的な儀式に陥ってしまって、形骸化してしまっているような感がしていました。開かれたお寺さんと言う言葉は聞くのですが、その実態は何処へ行けば見ることができるのかという思いに駆られれていました。
 昨日は、その姿が忽然として私の目の前に大きく現れました。若い僧侶が中心になって緻密に活動されているのです。私が知らなっかっただけでした。
 余りにも現代の社会は即物的な欲望のみを追い求めると言う風潮が満ち溢れていて、われわれ大衆が、神仏に客観的な御利益を求めることなくなくなってしまい、救いの御手を拒絶していると言う現実はあるのですが。
 でも、昨日は、生きて働いている仏教の姿を見つけることが出来ました。人々の生活に何か活路を見つけ出してくれるような催しだったのではないかと思いました。
 普賢院さんの若い僧侶もこの場で大いに活動なさっているのを拝見して、わが町にもと、大いに誇らしげにさへ思われました。

 昨日の講演会は、宮大工の小川三夫山のお話でした。
 彼は、お話の中で
 「執念の物造りが“いいもの”を作る基なのだ。手でする仕事は目で感じ、物を作ることにある。それが本当の美しさを造りだすのだ。例えば、薬師寺の国宝の五重塔の一階にある柱は真っ直ぐに立っているのではない、2.5cm傾いている。それだけの傾きがあるから見た目には真っ直ぐに見えるのだ。コンピューターの技術だったら、この2.5cmの傾きは作り出せない、。科学的な真っ直ぐは、人の目には真っ直ぐとは映らない。人々にいいなあーと感動させるものは、言い換えると、総ての人が美しいと感じるものは、この執念の物つくりから生まれるのだ。近代的な機械では決して造ることはできない。人間の目や手や指や体から造る執念の物造りからでないと造る事はできない。人の執念の心が入り込んでいるからこそ、美しいものに接すると、ありがたいと言うこころが起きる原因にもなるのだ。最高の材料と最高の技術を持って創造されたお寺は1000年の命が宿るのです。だから、ありがたさが一層募るのだ。1000年には1000年の価値が当然あり、それは敬虔さをも生んでいるのだ」
 と、槍鉋の実演もされながら、人の手による物造りの大切さを淡々と語られました。