私の町 吉備津

藤井高尚って知っている??今、彼の著書[歌のしるべ]を紹介しております。

おせん 43

2008-06-04 09:26:04 | Weblog
 おせんは、宋源寺の山門の所に 昨日と同じ時刻頃に「もしや」と思い行ってみましたが、まだそこには誰も来てはいません。まして、昨日の青年の姿などあろうはずもありませんでした。
 それでも、なお、「もしや。もしや」と、思いを繰り返しながら、半時ぐらい、そこに佇んでいます。通りすがりの人が怪訝な顔をして通り過ぎたりもします。
 「いややは、どないなってんね」
 残暑も否応なしに降りかかってきます。生暖かい風が、一吹き、おせんの顔を撫でて通り過ぎたりもします。
 「風をだに」と思った万葉人ほどではないにしても、何か乙女の胸に期するものがなかったかと言うと嘘になるのですが、「来むとし待たば」というほどのことでもないので、家に帰る決心がつきました。
 そうなると、昨日の爽やかな夏風に比べて、今日のじりじりと身体を焼き尽くすようお日さんに、何か文句もの一つでも言いたいような、八つ当りでもしたいような気分になるおせんです。
 そんなお日さんの顔が見たくないというわけではありませんが、昨日とは違って、家並の端の日陰を追って足早に歩きます。日陰のない橋の袂では道端にある小石を子供もみたいに蹴り上げます。川面に小さな波紋が幾重にも流れます。その水面のきらきらと照り輝く真砂のような光を見て、
 「うちってあほねん・・・なにしとんねん」
と、小声で自分に言い聞かせます。
 橋を渡ると、それからは、又、昨日のように往来の真ん中に出て、ゆっくりと歩いて帰ります。大分西に傾いたお日さんは、それでも、なお、昼の光をじりじりと強く投げかけています。
 道の真ん中を、このじりじりと輝きながら西に傾いていくお日様を自分の胸で押し込むように歩いていると、今までにあった胸のなんだか訳の分らないような自分で自分を追い込むようにして生まれたもやもやが、その夕陽にじりじりと胸の中で焼かれつくされ、ついさっきまでの気分とはまるで違った、息をそれこそ胸の奥までいっぱいに吸い込んだ時のようなえもいわれぬ爽快な気分にしてくれるたように思われます。
 知らず知らずの内に、「明日も天気にしておくれ」と、子供の時分に母と手を繋ぎながら歌った歌が喉をついて出てきます。


最新の画像もっと見る

コメントを投稿