私の町 吉備津

藤井高尚って知っている??今、彼の著書[歌のしるべ]を紹介しております。

呪いの藁人形か?

2008-03-22 09:04:16 | Weblog
 変梃りんなタイトルになりましたが、まあ私の話を聞いてください。
 
 わが町吉備津には『山神様』と称されている祠が所々にあります。そこには大抵小さな古墳がその祠の上か下かにあります。
 一番有名なのが吉備津神社の岩山宮です。
 南隋神門(重文)を少し下った回廊の左側に長い石段が伸びてその一番上に岩山宮があります。
 このお宮さんのご神体は『中山主命(なかやまぬしのみこと)』・『建日方別命』だと、言われています。神官の話ですと、ご神体は大きな岩で、祠の中に座していらっしゃるそうです。なお、岩がご神体というのは日本でも随分珍しいとのことでした。お山がご神体と言うのは昨秋に吉備津神社氏子会で行った三輪神社もそうで、全国にも数々あるのだそうですが。
 この岩山宮への石段を少し登った所に古墳の石室が顔を覗かせています。この祠ももともとは、この古墳を祭った山神様ではないかと思われます。その祠と吉備津彦命のお社が結びついて「中山主命」「建日方命」などという神が、何時しか山神様に取って代わられて祀られるようになたのではと思います。
 「建日方命」と言う神の名前は八世紀に作るれたの古事記などに出てくる神様の名前ですが、それ以前から、この祠はここに建っていたと思われます。まあ、この「吉備の国」という名が付く前から、この土地に土着して人々の間で信仰されていたお社ではと思われます(ももたろうさんの時代から)。

 ちょっと話が横にそれましたが、この岩山宮の祀られている吉備の中山(160m)の反対の側(北側)に「名越山」というお山があります。高さも150mぐらいで、何につけても、吉備の中山に何時も負けてばかりいます。だから、このお山は、何時かその名前を「越してやろう越してやろう」と、思っていたので、いつのまにやらこのお山に「名越山」と言う名が付いたのだそうです。
 
 このお山の裾に這い蹲るようにして広がっているが私の住む『向畑』です。
 これも吉備の中山の向こう側にあって「はた」即ち『傍・端・側』「はっしこのへんっぴ」な場所(この地方の言葉ですと、『ねき』『はな』『はっしこ』『ヘリ』)と言う意味ではないかと思います。
 それとも「はた」は秦かもしれません。「向畑」の東側のは備前ですが「辛川(からかわ)」というです。辛は韓又は唐ではないかとも言われています。
 中国や朝鮮からの渡来人の集落であったのかもしれません。もしそうなら、この辺りは、当時の最高文化を身につけていた人々の住み着いた場所で、言葉も食べ物などの生活様式も総てが高水準のものを使ったくらしをしていたのではないでしょうか。
 当時、吉備の中山の周辺に古くから住み着いていた原日本人がいて、新しく渡来してきたよそ者に対して、それも彼ら持つ高文化(稲作・鉄器・建築や養蚕技術・文字等)に対して少々やっかみ半分な気持ちでもって、その人たちを見下げて卑下するような言い方、「向端」という字を与えたのではないでしょううか。住む所としてはあまり上等でない向こうの方の、「ねき」の方へ追いやられた人たちの住む場所と言うような意味から名が出来上がりそれが段々と『向畑』という名前に定着して行ったのではないかとも考えられます。
 そんな想像が『向畑』という名前から伺えるのです。
 なお、辛川は「韓・唐」が、まず、浮び来ますが、また「空」でなんにもないと言う意味にも通じるようでもあります。
 
 辛川が「なにもないからっぽのほとり」で、向畑が「ねき・はしっこのむこうのほう」ぐらいな意味を含んだ名が一番の由来に相応しい名前であるかもしれません。

 まあ、こんなくだらない事はどうでもいいのですが。この名越山の麓、向畑にも又小さな祠「山神様」が、何時の頃からかはわかりませんがあります。
 その三間社流れ造のお社に一本の真鍮で出来た御幣がお祭りされてあります。
 物語は、この御幣から始まりますが、又、長くなりましたので、明日にします。

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