私の町 吉備津

藤井高尚って知っている??今、彼の著書[歌のしるべ]を紹介しております。

羽柴秀長という武将

2008-03-02 08:57:57 | Weblog
 秀長という武将は、秀吉の弟でしたが、あまり表には出ず、秀吉の黒子として後方支援の立場を常に守ってきた人で、豊臣家にあっては一番頭の切れる人だといわれています。でも最後は大和郡山の100万石の大名になりましたが、五十二歳の若さで亡くなっています。
 だから、高松城の水攻め合戦の時はあまりはかばかしい働きはなかったようです。影の力として秀吉を常に支えてきたようでした。
 この高松の合戦においても山陽街道の一番の要所である備中板倉にある鼓山に五千人の兵士を配置して陣取り、この山の西下にある高松城を一望の下に見渡せる位置から睥睨して、城に居る兵士を精神的に威圧していたのだろうと思います。
 このとき、高松城を取り囲んだ秀吉の軍勢は総勢三万騎といわれています。
 秀吉等の織田軍勢が、清水宗治の高松城近くに陣取りしたのが、天正十年三月十二日です。そして、その宗治が湖上で切腹して戦いが終わったのが六月四日です。80日物長丁場の戦いでした。
 その間の兵士一人一日の食費代を仮に3000円と見積もっても、3万人ですから80億円もの食費代がいる計算になります。
 また、秀吉が堤防を築き俄人造湖を作るための経費は、ざっと見積もっても300億円以上にもなります。
 土俵一表を米一升、銭100文で買い上げたといわれています。合わせて4000円ぐらいではなかったかと思われます。蛙ヶ鼻から福崎までやく3kmに土俵を600万個並べたと言い伝えられています。堤防の高さは八間、幅は十二間だったそうですから。最近の発掘調査が行われて、それが実証されました。簡単に土俵をしいただけのものでなく、杭や石などを使った大掛かりの堤防だったようです。
 この百姓から買い上げた土嚢の費用だけでも軽く250億円程度は超えていたと思われます。
 これだけのお金を支払ったからこそ12日という短期間で堤防が完成したのです。やはり戦いもお金次第のようです。
 諸経費を加えて総計500億円程度の戦費がこの戦いのために費やされたのではと計算してみました。

 これらの費用の殆どが、備中板倉の鼓山に陣取った秀長が調達したのではないかと考えられています。
 彼は当時丹波の出石城主という関係から、生野の銀山を支配下においていました。それをどうも抵当に入れて泉州堺の商人からお金を借りていたのでと思われています。証文等があるのかないのかは分りませんが。

 まあ、何はともあれ、この地方にもたらいら経済的効果は莫大であったらしいと言い伝えられています。300億円程度のお金が百姓たちにばら撒かれたのですから。