毛利氏はその領土専守のため備中と備前の国境に七城を設けて、侵攻する織田勢に対処していました。
その城の一つが高松城なのです。このほか六城として北から順次に
1、宮地山城(上足守)
2、冠山城(下足守)
3、加茂(鴨庄)城
4、日幡(ひばた)城(倉敷市日幡)
5、庭瀬城
6、松島城(倉敷市松島)
このそれぞれの城で両軍の戦闘か激しく繰り広げられますが、吉備津との関係は冠山城の戦いですので、それを少し詳しくご紹介します。
天正十年三月十七日、高松城の時と同じように、まず、信長卿より杉原・仙石二名の遣いを送り、口上をここでも吉備津神社神主、堀家掃部に言わせています。当時、この備中備前地域で、この人はそれだけの人望があった大人物だったと伝えられています。
先の三月十二日の高松城の時の清水宗治と同じように、ここの城主禰屋七郎兵衛も
「忠義を失い候、勝ち目はないかもしれませんが、懸命に戦い、防戦します。それでも適わない時は切腹する覚悟です」
と。
それから三日後の二十日寅の刻に、この城の三方から織田方は攻め込んでいきました。
篭城に兵も必死に戦いを繰り広げます、その間、“死亡手負、数を知らず”という。
一進一退を繰り返すこと四日後の三月二十四日の夜、伊賀の忍者が城中へ忍び込みあちこちに火をつけたそうです。その火が、鉄砲の火薬庫に燃え移り、城兵も、ただ右往左往するのみ騒ぎが激しくなったのです。
そんな時を見計らったかのように、秀吉軍は寺口の塀を乗り越えて城に押し入ります。
この時、加藤虎之助(清正)の働きは目覚しく、特に、城兵の勇者竹井将監との戦いは激しく、今でも言い草になって言い伝えられています。後に、秀吉から感状を頂き、『竹井将監儀無類也』といって、敵将はがら天晴れな堂々たる働きで勇者たるに値すると、その供養にと金子五十両を給り、吉備津宮内の賀夜(かや)坊で大法要が行われたそうです。
この『賀夜坊』が何処にあるのかは不明です。宮内の普賢院と何らかの関りはありそうですが、機会があったら真西和尚に教えを請いたいと思っています。
このような壮烈な戦いが繰り広げられますが、時の利あらず、遂に、この冠城は敵の手に落ち城主は自決し、多数の戦死者(一説には139人)をみたという。
その城の一つが高松城なのです。このほか六城として北から順次に
1、宮地山城(上足守)
2、冠山城(下足守)
3、加茂(鴨庄)城
4、日幡(ひばた)城(倉敷市日幡)
5、庭瀬城
6、松島城(倉敷市松島)
このそれぞれの城で両軍の戦闘か激しく繰り広げられますが、吉備津との関係は冠山城の戦いですので、それを少し詳しくご紹介します。
天正十年三月十七日、高松城の時と同じように、まず、信長卿より杉原・仙石二名の遣いを送り、口上をここでも吉備津神社神主、堀家掃部に言わせています。当時、この備中備前地域で、この人はそれだけの人望があった大人物だったと伝えられています。
先の三月十二日の高松城の時の清水宗治と同じように、ここの城主禰屋七郎兵衛も
「忠義を失い候、勝ち目はないかもしれませんが、懸命に戦い、防戦します。それでも適わない時は切腹する覚悟です」
と。
それから三日後の二十日寅の刻に、この城の三方から織田方は攻め込んでいきました。
篭城に兵も必死に戦いを繰り広げます、その間、“死亡手負、数を知らず”という。
一進一退を繰り返すこと四日後の三月二十四日の夜、伊賀の忍者が城中へ忍び込みあちこちに火をつけたそうです。その火が、鉄砲の火薬庫に燃え移り、城兵も、ただ右往左往するのみ騒ぎが激しくなったのです。
そんな時を見計らったかのように、秀吉軍は寺口の塀を乗り越えて城に押し入ります。
この時、加藤虎之助(清正)の働きは目覚しく、特に、城兵の勇者竹井将監との戦いは激しく、今でも言い草になって言い伝えられています。後に、秀吉から感状を頂き、『竹井将監儀無類也』といって、敵将はがら天晴れな堂々たる働きで勇者たるに値すると、その供養にと金子五十両を給り、吉備津宮内の賀夜(かや)坊で大法要が行われたそうです。
この『賀夜坊』が何処にあるのかは不明です。宮内の普賢院と何らかの関りはありそうですが、機会があったら真西和尚に教えを請いたいと思っています。
このような壮烈な戦いが繰り広げられますが、時の利あらず、遂に、この冠城は敵の手に落ち城主は自決し、多数の戦死者(一説には139人)をみたという。