私の町 吉備津

藤井高尚って知っている??今、彼の著書[歌のしるべ]を紹介しております。

小雪物語―あの夜に

2012-05-17 20:16:50 | Weblog
  そんな林様のお話に、小雪はあの悪夢のような決して思い出したくない一瞬が蘇ってきます。

 「はい。そうでした」
 「人さまには絶対に云いうな」と万五郎さんには云われていたのですが、例えようもない、ほんの一瞬に、自分の目の前に繰り広げられていったあの夜の悲惨な事件を小雪は静かに誰に云うということもなく語り始めました。そうすることが、この部屋に漂う何かしら怪しげな雰囲気を消すことになるのではと考えたからです。
 
 「お酒がお入いりになったのかもしれませんが、さも心持よさそうに京の生温かい夏の夜風を体一杯に受けながら、今、お江戸で流行っているのだと聞いた端唄でしょうか、口元に覗かせながら、高雅さまは新之介様と並ばれるようにして歩んでおいででした。そのお二人の後を私はついて参いりました。
 お宿を出て、どのくらい時間が経っていたのか分かりませんが、ほんのわずかだったと思われますが、その途端どす。『天誅』とか何か叫び声が聞こえたように思えました。稲光のような光りが、闇を突いて、突然、道の両方から舞い下りました。薄暗い夜の光の中に、「ざーっ」と言う音と共に、真っ赤な土砂降りのように降る注ぐ血でしょうか、私の目の前に、突然に、一杯に沸き立つのが見えました。それが何を意味しているのか私には咄嗟には判断が付きません。・・・・それが高雅さまと新之助さまが歩るいておいでの姿を、わてが見た最後どす。あれほど『私が高雅先生を、この刀で護るのだ』と、自信たっぷりに、お刀を叩き叩きしながらおっしゃっていた新之介様までも、そのお刀を抜く暇さへないように、その場で、切り殺されてしまはりました。
 後はあまり覚えておりまへん。何か「こっちへ、はやぅ」とかなんとかいうお言葉について、ぐいぐいと手をきつう引っ張られるようして、何処をどう歩いたのかも分りまへんが、しばらくして、気が付いてみたら、林さまのお部屋の前に、万五郎さんに抱きかかえられるようにして連れてこられておりました。
 何が何だか分りまへん。『お前の命が、今、危ないのだ。小雪、この万五郎さんに後は任せろ。逃げるのだ』と林様の性急なお言葉どす。その万五郎さんと兎に角この宮内まで逃げ果せたのどす」
 大きく息を一息入れて、小雪は、又話を続けるのでした。

 「万五郎さんに連れられて、兎に角、この宮内まで落ち伸びてまいりました。この宮内でも、その事件についての噂が、その内ぼちぼち人さまのお口に上ってまいります。・・・・あのお宮の高雅さまのお首が京の三条大橋の袂に吊るされてあったとか、こんな宮内にまでも、そのお噂が伝わり、その話で持ちきりのようどした・・・・・。 これも後からお聞きしたのどすが、丁度、高雅さま達とわてが泉屋をでようとした時分どす、万五郎親分も、京でのお仕事が一段落したとかで、昨日、船の中で、林さまから聞かされていた高雅さまについてのお噂が、えろう気になったものですから泉屋に林さまを尋ねようとされていたた先の出来事だったそうです。すんでのところ、わてまでも殺されようしていたのどすが、とっさの親分さんの機転によって、どうにか、命だけはお助け頂いただきました。後は林さまがどうにかしてくれはるということで、すぐさまその足で、夜を徹して、この宮内まで、連れて来てもろうたのでございます」
 これだけ、どうにか落ち着いてあの夜のことをお話しすることが出来ました。こんなにも、ゆっくりと一語一語に心を込めて人様に、自分のお話をしたことなど、今までなかったことです。
 そうお話した後で、何とはなしにお須賀さんの顔が突然に小雪の顔の中に飛び込んできます。その顔は、その時、急に、変にゆがんで、何か苦痛にでも耐えしのんでいるかのようにも思われました。そんな小雪の思いも無視するように
 「ああ、そうだったな。あの時は、あまりにも突然だったものですから、咄嗟に、せめて小雪だけでも、この場から、絶対に助ねばという思いにかられ、それを万五郎さんに頼んだのです。 ・・・でも、よく生き伸びてくれたと、喜んでいます。と云うのは、その場の様子を、直に、一番身近で見ていた小雪に、その時の高雅さま様子を、お母様であるお喜智様に話してもらうことが、私のできるお喜智さまへのご御恩に報いるものだと考えたからです」
 林さまはお話になられます。