「これから申し上げる事は、私にとっては、できる事なら知らぬ存ぜぬで押し通してしまうのがどれほど楽であるか知れません。でも、それでは、高雅さま、いや高雅さまだけではりません、喜智さまの弟君であらせられる洪庵先生に対しても、また、松山藩のお殿様や方谷先生に対しても申し開きが立ちません」
林様のお言葉の中には、高雅さまを自分が恰も殺してしまったかのような悲痛な響きか見えました。今まで何時もお聞きしていたあの快活な、やや早口におしゃべりになられる、人をひきつけてやまない明るさはどこかへ消え去ってしまい見えず、悔恨の思いだけが体を覆い尽くしているような、一言一言をかみ締めるようにゆっくりと話しになるのでした。
「洪庵先生も、高雅さまの身を痛くご案じになっていられたということをお聞きしています」
「騂之助と光次郎とはあまり歳の違いもなく兄弟のようなものでしたから、よけいに心配しとったんじゃろう」
喜智さまはご自分の膝に置かれた両の手をじっと見つめながら、やっぱり静かに自分自身に言い聞かせるかのように口をお開きになりました。
「あっ、失礼しました。騂之助は洪庵さんの幼名です。光次郎は高雅のです」
それからしばらく沈黙が続きます。
「[此四五日前より浦賀へ又々異国船相見え候由]云々という洪庵先生からの手紙を頂き、高雅さまは、天子様を中心として国防の必要をお考えになり、益々、尊王攘夷の考えを深められていったようです。そして、今までにじっとお胸に暖められていた、紀淡海峡に海防策として暗礁築造を思いつかれてたようでした」
今まで、じっとその両の手を見つめていらっしゃた喜智さまは、林さまのお顔のほうにお向きになり、
「なんて・・・」と、喉の奥から搾り出されるような悲痛な喜智様のお声が、しんーとしたお部屋に流れました。それは、また、小雪には、子を思う母親の慈悲深い涙声であるかのようにも聞こえました。
小雪は顔を伏せたまま、しばらく、畳の目を身動き一つしないで、じっと見つめていました。
又々言葉が途絶えました。
ややあって、また、林さまのお声が届いてきました。
「ご存知のように、そのような国難を耳にしてからしばらく後の事だと伺っていますが、高雅さまはご長男の紀一郎様に吉備津神社社家頭の職をお譲りになり、尊王攘夷の情押さえ難く、広く天下の志士と交わり、大いに国事に奔走すべく、意を決されて京に上られたのでした」
林さまは、一語一語、恰も、その意味をご自分でも確かめるように、ゆっくりゆっくりお話しにおなりになっていました。
知っている事を、いや、真実を語るということがこれほど悲しい難しいものかと言う事を、己に言い聞かせているかのようなお話しぶりでございました。
庭の萌葱がかった木々の間を通りぬけて、心地よい恵風が、生まれたての若葉の匂いを含んでそよろと小雪の後れ髪をなでるようにして揺らしておりました。
林様のお言葉の中には、高雅さまを自分が恰も殺してしまったかのような悲痛な響きか見えました。今まで何時もお聞きしていたあの快活な、やや早口におしゃべりになられる、人をひきつけてやまない明るさはどこかへ消え去ってしまい見えず、悔恨の思いだけが体を覆い尽くしているような、一言一言をかみ締めるようにゆっくりと話しになるのでした。
「洪庵先生も、高雅さまの身を痛くご案じになっていられたということをお聞きしています」
「騂之助と光次郎とはあまり歳の違いもなく兄弟のようなものでしたから、よけいに心配しとったんじゃろう」
喜智さまはご自分の膝に置かれた両の手をじっと見つめながら、やっぱり静かに自分自身に言い聞かせるかのように口をお開きになりました。
「あっ、失礼しました。騂之助は洪庵さんの幼名です。光次郎は高雅のです」
それからしばらく沈黙が続きます。
「[此四五日前より浦賀へ又々異国船相見え候由]云々という洪庵先生からの手紙を頂き、高雅さまは、天子様を中心として国防の必要をお考えになり、益々、尊王攘夷の考えを深められていったようです。そして、今までにじっとお胸に暖められていた、紀淡海峡に海防策として暗礁築造を思いつかれてたようでした」
今まで、じっとその両の手を見つめていらっしゃた喜智さまは、林さまのお顔のほうにお向きになり、
「なんて・・・」と、喉の奥から搾り出されるような悲痛な喜智様のお声が、しんーとしたお部屋に流れました。それは、また、小雪には、子を思う母親の慈悲深い涙声であるかのようにも聞こえました。
小雪は顔を伏せたまま、しばらく、畳の目を身動き一つしないで、じっと見つめていました。
又々言葉が途絶えました。
ややあって、また、林さまのお声が届いてきました。
「ご存知のように、そのような国難を耳にしてからしばらく後の事だと伺っていますが、高雅さまはご長男の紀一郎様に吉備津神社社家頭の職をお譲りになり、尊王攘夷の情押さえ難く、広く天下の志士と交わり、大いに国事に奔走すべく、意を決されて京に上られたのでした」
林さまは、一語一語、恰も、その意味をご自分でも確かめるように、ゆっくりゆっくりお話しにおなりになっていました。
知っている事を、いや、真実を語るということがこれほど悲しい難しいものかと言う事を、己に言い聞かせているかのようなお話しぶりでございました。
庭の萌葱がかった木々の間を通りぬけて、心地よい恵風が、生まれたての若葉の匂いを含んでそよろと小雪の後れ髪をなでるようにして揺らしておりました。