私の町 吉備津

藤井高尚って知っている??今、彼の著書[歌のしるべ]を紹介しております。

小雪物語ー片島屋の万五郎さん

2012-05-08 10:08:59 | Weblog
「丁度、あの痛ましい事件が起きる前日だったと思いますが、浪速から京に上る船の中ございました。奥様も御存じの、ここの熊次郎さんの所の片島屋の万五郎さんに、本当に偶然だったのですが、ばったりと出会ったのでございます。万五郎さんも、驚いているようでしたが、何か熊次郎親分の大切なお役目があるとかで、遠く相馬辺りまで足を運んでいるとお話になられます。船の中ですので、あまり詳しいことも聞けませんでしたが、何か差し迫ったことがこの親分さんのところでも起っているらしく、この所、日々旅の連続で、今晩は京でお話をつけて、明日には、また、江戸へ行かなくてはならず、この宮内へは当分帰れそうもないと淋しげに、目を船床へやりながら薄笑いを浮かべながらお話されていました。まあ、そんなにお忙しい親分にですが、今、高雅さまは京に居て、大変な危険を押して、このお国のための大きな事業をやり遂げようとしているのだ、という事を話して、もし、どこかでお会いするような機会でもあったら、なにくれとなく世話してくださいと、お頼みもしました。」
 それだけを早口に一気に言われ、それから大きく息をされて、冷めてしまったお酒の入っている備前の猪口をゆっくりとご自分のお口に、いやいやながらのように持って行かれました。
 「あの日も、何時もの通り、高雅さまは新之介さまをお供に連れてお出ででした。私とこの小雪と4人でお会いするのは、その日が、確か3回目ぐらいだったと思いますが。まあ、私はこの小雪に何時も京にいるときは身の回りの世話を頼んでいます。この娘の死んだ母親から続いてですがね。ははは・・」
 「まあ新之介と・・」と、喜智さまが驚かれた様子で何かおっしゃられようとした時です。廊下を、大急ぎでこちらへ突き来るような気配がしたと思った途端、障子がさっと開き、少々あわてた様子で、お喜智さまみたいに背筋のちゃんと整ったお年を召されたきりりとお顔の引き締まった、いかにも気の強そうなご婦人の方がお入りになり、いざよりながら喜智さまの前にお進みになられました。それから、そのお人は、林さまの前にいる小雪をじろりと、なにかいやらしい小薄れた汚らしいものでも見るように一瞥されながら、喜智さまに向かって、甲高くやや声をひきつらしながら、言います。
 「まあ、奥様、ここを何処だとお心得でしょうか。ここは堀家の奥の間です。お屋敷で一番大切なお座敷です。そこへ、こんなけがらわしい見ず転のはしため女を、どんな了見です。」
 この「す」という言葉が、あまりの大きくて突飛で、部屋中に跳びはねているようで、小雪には、瞬間に、またまた、自分はとんでもない遠く離れた異世界にでも来ているのではないかと思えるのでした。
 しばらく、その女の人を黙って静かに見つめていらした喜智さまが、ゆっくりとその人に向かって、襟に手をおやりになり、何か愛しむように顔をむけられました。そんな二人の様子を見ておりますと、又しても自分とは無関係な、時も場所も、すべてどこか違う処で起きているように小雪には思われるのでした。そして、いくら招かれたにせよ、宿のお粂さんの、性急な追い出しによって、無分別にも飛び出すように此処へ来てしまった今の自分が、いやでなりません。
 「ここにこなかった方がよかった」
 と、もう何度目かのそんな思いが小雪の胸を横切ります。