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自分と他者をつなぐ力

2013-09-29 13:13:33 | メッセージ
礼拝宣教 エステル記8章1~8節 

先週は、月曜日に関西地方教会連合の信徒大会が神戸教会を会場に開かれました。140名ほどの子どもから大人が一同に会し、午前中は礼拝、そして「笑いは人を豊かに、元気にする」と題して、医師の伊藤実喜先生のご講演&ご公演がありました。先生は日本笑い学会の会員であり、マジックを通して医療の現場や様々なところでご活躍されていますが。今回実演を交えながらお話を頂きましたけど、まあ大盛況でありました。午後からは、カンボジアに連盟のミッションボランティアとして参加された加藤さんのご報告を伺い、その後少年少女と大人9つのグループに分かれて講演の感想、それぞれの教会の紹介や報告をして、交流の時が持たれました。又、子どもたちは「こどもデイキャンプ」として講師の伊藤先生からマジックを教えてもらい、信徒大会の閉会の時、マジックの発表をしました。先生曰く「子供達との触れ愛は最高でした。短い時間かなりむずかしい技術をマスターしてイリュージョンショーにまで披露したのは感動ものでした」ということでしたが。手品をする子どもを手拍子とか歓声で励ましながら、実は大人の方が元気をもらっていましたね。先生は講演のまとめの言葉として、「祈り・笑い・楽しみ」は脳下垂体を元気にして、ミトコンドリアを増やし、元気発電がフル回転します・・・「相手を思いやる事は、自分を元気にする事」であるとおっしゃっていました。
今回の信徒大会は大人だけでなく子どもたちも一緒に学び、楽しめるようなプログラムにいたしましたが。参加者の方々からも「元気が出た」と大変好評でありました。地方連合のつながりあればこその信徒大会、又こういった企画であり、学び、そして喜びでもあったと思います。これからも主イエスの福音を共に分かち、担い合うよいつながりが持たれていくよう覚えて頂ければと願います。

信徒大会の日の翌24日は、福岡にある久山療育園の全国支援者会議が開かれるので、日帰りで出席いたしました。前日が恒例の開園祭でしたが。全国支援者会議の内容は主に、新しい事業として展開する「在宅支援棟」と「ケアホーム久山」の建設と運営についてでした。久山療育園は開設以来、地域社会の重症心身障害児者の受け入れをなしてきました。数年前には改修工事がなされ、新しい建物ができました。現在88人の入所者の方々と在宅から通園される方々への医療と療育が提供されています。ところが今後の国の方針は、障害者は施設にではなく家族で看て、ケアをなし自立を促していくべし、という施設解体論や施設不要論ともいえるものに重点が向けられていくということです。それらは国費をこうした重症心身障害児者のために使うのは問題だという発想から来ています。しかし現実の重症心身障害児者の実態を明らかにしたデータによれば、施設にも入れないで在宅で医療と療育を切実に必要としている重たい障害を抱える方々が、社会には見えないですがたくさんおられ、一日一日を生きるためご家族が苦しみ闘っておられるというのが実情なのです。そういった在宅の重症児者の割合は非常に高いということです。こういう事態にきちんと目が向けられ、手厚いケアがなされていくための貴重な発信の場として久山療育園が建てられているその意味は大きいと改めて思わされました。
 会議の中である委員が、新しい事業「ケアホーム久山」を運営していくのに毎年大きな赤字が出る。もっと現状認識を園も私たちもする必要がある」と問いかけられました。「それだけの覚悟があるか」ということです。確かに私も初めこの事業のことを知った時、建設費用もかなりのものだし、そのうえ運営をすることで、現在受け入れている入所者のケアも看護や養育のスタッフも大変な状態なのに、さらに新しい事業を展開してやる必要があるのか、と疑問を持っていました。
ところが、会議の中で別の委員の方がこのように発言されたのです。
「赤字があるから支援するのではなく、赤字であってもそれをやろうとする久山の創設以来の理念を共有することがまず大事ではないでしょうか。久山の理念とは「重症児が社会の片隅にではなく(キリストが小さき者をみなの真ん中に立たせられたように)、社会の中心に位置づけられることを願う」というものであり、そのような福祉共同体の拠点となることを目指して創設された、それが久山療育園なのです。  
その方はさらに、「久山療育園のことを、久山のためにと特化すべきではない。久山の抱えている問題は教会の抱えている問題なのではないか。礼拝に来られている方然り。教会の中にも、教会の周辺社会においても、見えなくされている方。日々苦しみ、闘っておられる方と家族がおられる。実はその人たちの声や叫びに耳を傾け、少しでも寄り添っていけるのが教会なのではないのか。つまり、久山のこの問題は自分たちの事柄であるということから新しい事業ケアホームのことを捉えていくことが大事だ」と、そういう趣旨のことを言われたんですね。この方は仙台の教会において被災者の支援活動を地道になさっておられるのですが。私はその言葉が大変心に響いてきました。

さて、今日はエステル記8章1~8節が読まれました。
王妃エステルは王の足もとにひれ伏し、涙を流し、憐れみを乞い、アガク人ハマンの悪事、すなわち、ユダヤ人に対して彼がたくらんだことが無効になるようにと命懸けで訴えます。
すると王が金の笏を差し伸べられたので、エステルは王にお目通りが叶い、「王が調印した勅令すなわち、ハマンが作ったユダヤ人絶滅の文書の取り消しを申し出るのです。
エステルは王に、「私は自分の民族の滅亡を見るのに忍びないのでございます」と、その思いを吐露します。
すると王は答えます。「王の名によって書き記され、王の指輪で印を押された文書は、取り消すことができない。だからお前はよいと思うことをユダヤ人のため王の名によって書き記し、王の指輪で印を押すがよい」。つまり、一度調印された勅令は王であっても取り消すことができないが、お前たちがそれに代わる文書を作り、そこにわしの名を入れ、わしの指輪で印を押せば、前の勅令を無効にすることができる、という許可を得て、ユダヤの民は滅びから免れるのであります。
エステルの「私は自分の民にふりかかる不幸を見るに忍びず、また同族の滅亡を見るに忍びないのでございます」という言葉からは、同族の苦しみと痛みを、自分のものとして感受しているエステルの思いが強く伝わってまいります。
しかし一方で、ここには異邦人の地にあって生きるユダヤ人としての民族意識が強く表れています。ですからこの言葉を単に同胞愛、民族、国家への愛と読むと、キリストの福音からかけ離れたものになってしまいます。なぜなら、向かう先はエステル記9章にあるように他民族への排他的行為となり得るからです。
この、エステル王妃の作った新しい勅令は、本日読みませんでしたが。「ユダヤ人を迫害する人々を滅ぼす」というものでした。それが9章に至ますと、ユダヤ人たちの殺害行為は自分たちの身を守るという単なる自衛の範囲を大きく逸脱したものとなっていくのです。

私たちはエステルのこの「私は自分の民にふりかかる不幸を見るに忍びず、また同族の滅亡を見るに忍びない」というこの言葉を、キリストの教えと行動から聞いていくことが大切です。私の同胞とは誰か?隣人とは誰か?主イエスは身をもってそれを示してくださいました。私たちはいつも主が寄り添われたそのような隣人の痛みや苦しみを自分のものとして感受してく感性をもっていたいと願います。それが教会であり、主の民であると信じます。
私たちの身近なところに、その独自性、個性、違いのゆえに小さく人がいないでしょうか、そのような声すらならない声、言葉にすらならない呻きがごく身近にないでしょうか。

今日は始めに、伊藤先生の「相手を思いやる事は、自分を元気にすること」という話をご紹介しました。そして、久山療育園の理念と働き、そこで起こっている問題や課題は、実は私たちの身近にもすでにある出来事であり、そこに思いを寄せて共に生きることこそ、教会を教会たらしめるキリストの共同体である、ということをお話しました。
人のためにと支援することは大事です。しかしそれだけでは長続きしません、つぶれてしまいます。他者の抱えている事柄や問題は、まさに自分の事柄、私の事柄なのだと気づかされ、そこでつながっていけるのなら、きっとそれは拡がりと深まりをもって、さらに継続して実りをもたらします。今日このエステルの「私は自分の民族にふりかかる不幸を見るに忍びず、また同族の滅亡を見るに忍びないのです」との言葉を、私たちもイエス・キリストの隣人愛に根ざしつつ、とりなし・とりなされつつ共に生きる喜びを分かち合ってまいりましょう。
自分と他者をつなぐ力は、「愛と憐れみの神、十字架と復活の主イエス、見えないものを明らかにするご聖霊」であることに感謝し、この後も心から主を賛美いたしましょう。
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