礼拝宣教 ルツ記4章1~17節
「不思議な主の導きとお取り計らい」
先週は、夫に先立たれ、さらに2人の息子にも先立たれ、失意のどん底にあったナオミと、そのナオミの息子嫁であったモアブ人のルツのお話しでした。
ルツはナオミに寄り添うようにユダのベツレヘムに同行するのでありますが。そこで日毎の糧を得るために人の畑に出て行き、農夫たちのあとをついて落ち穂拾いをいたします。ミレーの絵画は有名でありますが。落ち穂拾いというのは、収穫の時農夫がとり落とした穂を拾い集めたり、刈り残したものを刈り取って糧を得ることをさしているわけです。 それはレビ記の19章9節、10節に記されていますように、貧しい者や寄留者のために「刈尽くしてはならない」「摘み尽くしてはならない」「落ちた穂を拾い集めてはならない」という神の戒めの下、いわば合法的に認められた権利であったということです。神の戒めは人を束縛するようなものではなく、むしろあらゆる人たちが虐げられることなく、人間らしく生きることができるようにという神の深い憐れみによるものなのです。
まあルツはそのようにしてナオミを支えるのでありますが。そのルツが落ち穂を拾っていた畑地を所有していたのが、奇遇にもナオミの亡き夫エリメレクの親戚の一人であるボアズであったのです。ボアズは自分の畑地で落ち穂を拾っていたルツが、モアブの野からナオミと一緒に戻ってきたのを知ると、ルツに「よその畑に落ち穂を拾いに行く事はない。ここから離れることなく、わたしのところの女たちと一緒にここにいなさい。刈り入れをする畑を確かめておいて、女たちについて行きなさい・・・喉が渇いたら、水がめの所へ行って、若い者がくんどいた水を飲みなさい」と厚意を示します。
「祝福を祈る」
ルツは顔を地につけひれ伏しつつ、「よそ者のわたしをこれほど目にかけて、厚意を示してくださるのは、なぜですか」と問うのですが。それに対してボアズは次のように答えます。「主人が亡くなった後も、しゅうとめに尽くしたこと、両親と生まれ故郷を捨てて、全く見も知らぬ国に来たことなど、何もかも伝え聞いていました。」そして「どうか主があなたの行いに豊かに報いてくださるように。イスラエルの神、主がその御つばさのもとに逃れてきたあなたに十分報いてくださるように」とルツを祝福します。
ルツはこのボアズの親切に感謝し、それからというもの日が暮れるまで一生懸命に落ち穂を拾い続け、姑ナオミのところに持って帰ったのでした。
一方姑のナオミは、ルツがいっぱいの落ち穂を拾って来た畑地の所有者が、亡き夫の近い親戚であるボアズだということをルツから聞かされ、「どうか生きている人にも死んだ人にも慈しみを惜しまれない主がその人を祝福してくださるように」と、主を賛美しつつボアズを祝福します。ボアズもナオミも互いに相手を祝福するんですよね。主を畏れ敬う人たちの関係が麗しいのは、このように相手を祝福することができるという事ではないでしょうか。それは自分に益のある人だけに向けられるのではなく、自分と直接的関係のないような人、さらに主イエスに至っては、」敵を愛しあなたがたを憎む者に親切にし、悪口をいう者にさえ祝福を祈り、侮辱する者のためにも祈りなさい」とおっしゃるのです。主イエスは父なる神さまが人を偏り見ず情け深く憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者になりなさい」(ルカ6章28節)と言われます。私たちは互いに、益々祝福し合い、様々な人たちのことを覚え、取りなし祈ることで、神の栄光を表すものとされたいものであります。
「ボアズの知恵と行動」
さて姑のナオミは、ボアズが夫であったエリメレクの親族であることを知り、ルツにある大胆な計画を伝えます。それはルツの今後のことを考えた上でのことでした。そうしてナオミの言葉どおりにルツは、ボアズに近づき結婚の意志を示す行動にでるのです。
するとボアズは次のように答えます。「わたしの娘よ、心配しなくていい。きっとあなたの言うとおり(あなたの家を絶やすようなことはしないよう)にします。・・・・確かにわたしも家を絶やさぬ責任のある人間ですが、実はわたし以上にその責任のある人がいる。明日の朝その人が責任を果たすというのならそうさせよう。しかし、それを好まないなら、主は生きておられる。わたしが責任を果たします。」ボアズはルツの結婚の申込に即答せず、保留したのです。
さて、ここからが本日の4章となります。
ボアズは町の門のところへ上って座っていると、折よく、エリメレクに最も近いもう一人の親戚が通り過ぎようとしていたので、声をかけ、町の長老10人の立ち会いのもと、畑地の買い取りについての話がしたいと言います。ボアズは「モアブの野から帰って来たナオミが、わたしたちの一族エリメレクの所有する畑地を手放そうとしています。もしあなたに責任を果たすおつもりがあれば、買取ってください」と切り出します。ユダの家族法の一つには、「親族の者は氏族のもつ財産やその氏族に属する人が生きていくうえでの生活や生計が維持されていく義務を負う」というものがあったのです。この近しい親戚は、エリメレクの畑地が親族以外の者に移らないために自分が買い取っていくことが望ましいと考えて、「わたしが責任を果たしましょう」と、快諾をするのです。
ところがボアズは、さらに「畑地を買取るときには、亡くなった息子の妻であるモアブの婦人ルツも引き取らなければなりません」と持ちかけます。
親戚の人は、畑地を買取ることだけでなく、モアブ人のルツとの結婚もそれに含まれていることを知るや、「そこまで責任を負うことになればわたしの嗣業を損なうことになります。それはできません」と言い、「親族としてわたしが果たすべき責任をあなたが果たしてくださいませんか」とボアズに伝え、その権利を放棄し、ボアズに譲渡するのです。
「贖いについて」
このボアズの提案については、確かに、ユダの家族法に売却された氏族の財産、あるいは危機に陥った氏族財産の請け出しを親族が負う責務はありました。が、ボアズの言う様に、義理の兄弟以外の親戚が、故人の先妻を引き取って妻とする義務などなかったのであります。けれどもこの親族もナオミやルツのことを当然伝え聞いていたでしょうから、反論はあえてしなかったのでしょう。ただ、ルツを引き取ってゆくことまでは考えられなかったのでしょう。ルツはモアブ人であり、ユダヤ人は外国人と交わることが禁じられ、モアブ人とは特に敵対関係にあったわけですから。いくら近しい親族であったとしても、外国人のルツを引き取って妻とすることは、周囲からどのような目で見られるか分からないという恐れや心配もあったはずです。さらにナオミをも引き取り養っていくとなると経済的負担の重圧もあったでしょう。そういう理由からこの親戚はボアズの提案を放棄し、それをボアズに譲ったのです。そのように考えますと、ボアズはそれらの負担の大きさを予想していながらも、ルツそしてナオミを引き受けていく覚悟でいたということです。
では、何がここまでボアズの心を動かしたのでしょう。
それは単に近い親族としての義務や責務だけでできるものではありません。「ああ、お気の毒に」といった同情心で出来ることでもなかったでしょう。そこには異邦人のルツが姑ナオミを愛し、慕い、切実にナオミを支え続けていたその姿に心打たれたということがあったのではないでしょうか。まあそこには、ナオミの祈りと取りなしが常にあったということが想像できますが。この二人の女性の姿はボアズにとって驚異ともいえる事だったのかも知れません。そのような思いから彼はルツを引き取り、エリメレクの氏族の財産と名を残す責務を果たす決意へ導かれていったのではないでしょうか。
さて、今日の聖書の中心は、ボアズがエリメレクの畑地を買い取って氏族の財産を守っただけでなく、ルツを請け出したという点にあります。「請け出す」とあえて申しますのは、このことでボアズが大きな代価を払い一切を引き受けていったからです。それは異邦人のルツにとっては当時のユダヤ社会における偏見や差別からの贖いと解放であり、ナオミにとっては新たな家族としてのつながりを得る、という神の慈しみに外なりませんでした。贖いの業と神の慈しみ、それは私どもにとりまして救い主イエス・キリストであります。寄る辺なき私、祝福から見放されたような私、世に小さくされた者の一人とされた私。
その私をかけがえのない存在として自ら十字架の犠牲とという計り難い大きな代価を払い、贖いとってくださった主イエス・キリスト。
このボアズなしたことから、主イエスの救いの御業に至るまで、そこには今も昔もそしてこれからも変わることのない父なる神の御愛と慈しみ、ヘセドの愛がその根底に流れているのであります。
「神さまからのプレゼント」
さて、今日の4章の後半にもどりますが。ここには「人々の祝福と神の祝福」と小見出しがつけられています。証人となった長老たちがボアズとルツを祝福します。その後、ボアズとルツに男の子が与えられました。
すると今度は女性たちが一斉にナオミを祝し、「主をたたえよ。主はあなたを見捨てることなく、家を絶やさぬ責任のある人を今日お与えくださいました。どうか、イスラエルでその子の名があげられますように。その子があなたの魂を生き返らせる者となり、老後の支えとなるでしょう。あなたの愛する嫁、七人の息子にもまさるあの嫁がその子を産んだのですから」というのです。
ボアズの祝福の祈りとナオミの祝福の祈り、そして長老たちの祝福の祈り。さらにそれは女たちの祝福の祈りにつながっていくのです。そしてそれが、ダビデの系図を表すとおりユダヤの祝福となり、その延長線上において主イエス・キリストの誕生によって神の祝福が全世界に広がっていったということです。まあ何とも壮大な祝福の連鎖をここに見ることができるわけでありますが。私たちも神の祝福に与っている者として、その祝福を広げ分かち合い、その祝福の輪に連ならせて頂きたいと願うものです。
最後に、16節に「ナオミはその乳飲み子をそのふところに抱き上げ、養い育てた」とありますが。
モアブからユダに帰郷したとき彼女は何と主に訴えたでしょう。「主はうつろにしてわたしを帰らせたのです。なぜ、快い(ナオミ)などと呼ぶのですか。主がわたしを悩ませ、全能者がわたしを不幸に落とされたのに」(1章21節)と主に訴え嘆いたのでした。
その彼女が、今や肉の血筋を上回るような神の恵みの子どもを授かり、そのことによって生きる希望を与えられ、魂が生き返るような思いを与えられた。すなわち、「快い」というナオミ自身を取り戻すことができたのであります。それはまさに大きな「神さまからのプレゼント」であったのです。
このルツ記から、ナオミ、ルツ、ボアズの人となりから、神の愛と慈しみに改めて気づかされます。主の救いに生かされた者の証しを、私どもも祝福の祈りと共に立ててゆく者でありたいと心から願います。
「不思議な主の導きとお取り計らい」
先週は、夫に先立たれ、さらに2人の息子にも先立たれ、失意のどん底にあったナオミと、そのナオミの息子嫁であったモアブ人のルツのお話しでした。
ルツはナオミに寄り添うようにユダのベツレヘムに同行するのでありますが。そこで日毎の糧を得るために人の畑に出て行き、農夫たちのあとをついて落ち穂拾いをいたします。ミレーの絵画は有名でありますが。落ち穂拾いというのは、収穫の時農夫がとり落とした穂を拾い集めたり、刈り残したものを刈り取って糧を得ることをさしているわけです。 それはレビ記の19章9節、10節に記されていますように、貧しい者や寄留者のために「刈尽くしてはならない」「摘み尽くしてはならない」「落ちた穂を拾い集めてはならない」という神の戒めの下、いわば合法的に認められた権利であったということです。神の戒めは人を束縛するようなものではなく、むしろあらゆる人たちが虐げられることなく、人間らしく生きることができるようにという神の深い憐れみによるものなのです。
まあルツはそのようにしてナオミを支えるのでありますが。そのルツが落ち穂を拾っていた畑地を所有していたのが、奇遇にもナオミの亡き夫エリメレクの親戚の一人であるボアズであったのです。ボアズは自分の畑地で落ち穂を拾っていたルツが、モアブの野からナオミと一緒に戻ってきたのを知ると、ルツに「よその畑に落ち穂を拾いに行く事はない。ここから離れることなく、わたしのところの女たちと一緒にここにいなさい。刈り入れをする畑を確かめておいて、女たちについて行きなさい・・・喉が渇いたら、水がめの所へ行って、若い者がくんどいた水を飲みなさい」と厚意を示します。
「祝福を祈る」
ルツは顔を地につけひれ伏しつつ、「よそ者のわたしをこれほど目にかけて、厚意を示してくださるのは、なぜですか」と問うのですが。それに対してボアズは次のように答えます。「主人が亡くなった後も、しゅうとめに尽くしたこと、両親と生まれ故郷を捨てて、全く見も知らぬ国に来たことなど、何もかも伝え聞いていました。」そして「どうか主があなたの行いに豊かに報いてくださるように。イスラエルの神、主がその御つばさのもとに逃れてきたあなたに十分報いてくださるように」とルツを祝福します。
ルツはこのボアズの親切に感謝し、それからというもの日が暮れるまで一生懸命に落ち穂を拾い続け、姑ナオミのところに持って帰ったのでした。
一方姑のナオミは、ルツがいっぱいの落ち穂を拾って来た畑地の所有者が、亡き夫の近い親戚であるボアズだということをルツから聞かされ、「どうか生きている人にも死んだ人にも慈しみを惜しまれない主がその人を祝福してくださるように」と、主を賛美しつつボアズを祝福します。ボアズもナオミも互いに相手を祝福するんですよね。主を畏れ敬う人たちの関係が麗しいのは、このように相手を祝福することができるという事ではないでしょうか。それは自分に益のある人だけに向けられるのではなく、自分と直接的関係のないような人、さらに主イエスに至っては、」敵を愛しあなたがたを憎む者に親切にし、悪口をいう者にさえ祝福を祈り、侮辱する者のためにも祈りなさい」とおっしゃるのです。主イエスは父なる神さまが人を偏り見ず情け深く憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者になりなさい」(ルカ6章28節)と言われます。私たちは互いに、益々祝福し合い、様々な人たちのことを覚え、取りなし祈ることで、神の栄光を表すものとされたいものであります。
「ボアズの知恵と行動」
さて姑のナオミは、ボアズが夫であったエリメレクの親族であることを知り、ルツにある大胆な計画を伝えます。それはルツの今後のことを考えた上でのことでした。そうしてナオミの言葉どおりにルツは、ボアズに近づき結婚の意志を示す行動にでるのです。
するとボアズは次のように答えます。「わたしの娘よ、心配しなくていい。きっとあなたの言うとおり(あなたの家を絶やすようなことはしないよう)にします。・・・・確かにわたしも家を絶やさぬ責任のある人間ですが、実はわたし以上にその責任のある人がいる。明日の朝その人が責任を果たすというのならそうさせよう。しかし、それを好まないなら、主は生きておられる。わたしが責任を果たします。」ボアズはルツの結婚の申込に即答せず、保留したのです。
さて、ここからが本日の4章となります。
ボアズは町の門のところへ上って座っていると、折よく、エリメレクに最も近いもう一人の親戚が通り過ぎようとしていたので、声をかけ、町の長老10人の立ち会いのもと、畑地の買い取りについての話がしたいと言います。ボアズは「モアブの野から帰って来たナオミが、わたしたちの一族エリメレクの所有する畑地を手放そうとしています。もしあなたに責任を果たすおつもりがあれば、買取ってください」と切り出します。ユダの家族法の一つには、「親族の者は氏族のもつ財産やその氏族に属する人が生きていくうえでの生活や生計が維持されていく義務を負う」というものがあったのです。この近しい親戚は、エリメレクの畑地が親族以外の者に移らないために自分が買い取っていくことが望ましいと考えて、「わたしが責任を果たしましょう」と、快諾をするのです。
ところがボアズは、さらに「畑地を買取るときには、亡くなった息子の妻であるモアブの婦人ルツも引き取らなければなりません」と持ちかけます。
親戚の人は、畑地を買取ることだけでなく、モアブ人のルツとの結婚もそれに含まれていることを知るや、「そこまで責任を負うことになればわたしの嗣業を損なうことになります。それはできません」と言い、「親族としてわたしが果たすべき責任をあなたが果たしてくださいませんか」とボアズに伝え、その権利を放棄し、ボアズに譲渡するのです。
「贖いについて」
このボアズの提案については、確かに、ユダの家族法に売却された氏族の財産、あるいは危機に陥った氏族財産の請け出しを親族が負う責務はありました。が、ボアズの言う様に、義理の兄弟以外の親戚が、故人の先妻を引き取って妻とする義務などなかったのであります。けれどもこの親族もナオミやルツのことを当然伝え聞いていたでしょうから、反論はあえてしなかったのでしょう。ただ、ルツを引き取ってゆくことまでは考えられなかったのでしょう。ルツはモアブ人であり、ユダヤ人は外国人と交わることが禁じられ、モアブ人とは特に敵対関係にあったわけですから。いくら近しい親族であったとしても、外国人のルツを引き取って妻とすることは、周囲からどのような目で見られるか分からないという恐れや心配もあったはずです。さらにナオミをも引き取り養っていくとなると経済的負担の重圧もあったでしょう。そういう理由からこの親戚はボアズの提案を放棄し、それをボアズに譲ったのです。そのように考えますと、ボアズはそれらの負担の大きさを予想していながらも、ルツそしてナオミを引き受けていく覚悟でいたということです。
では、何がここまでボアズの心を動かしたのでしょう。
それは単に近い親族としての義務や責務だけでできるものではありません。「ああ、お気の毒に」といった同情心で出来ることでもなかったでしょう。そこには異邦人のルツが姑ナオミを愛し、慕い、切実にナオミを支え続けていたその姿に心打たれたということがあったのではないでしょうか。まあそこには、ナオミの祈りと取りなしが常にあったということが想像できますが。この二人の女性の姿はボアズにとって驚異ともいえる事だったのかも知れません。そのような思いから彼はルツを引き取り、エリメレクの氏族の財産と名を残す責務を果たす決意へ導かれていったのではないでしょうか。
さて、今日の聖書の中心は、ボアズがエリメレクの畑地を買い取って氏族の財産を守っただけでなく、ルツを請け出したという点にあります。「請け出す」とあえて申しますのは、このことでボアズが大きな代価を払い一切を引き受けていったからです。それは異邦人のルツにとっては当時のユダヤ社会における偏見や差別からの贖いと解放であり、ナオミにとっては新たな家族としてのつながりを得る、という神の慈しみに外なりませんでした。贖いの業と神の慈しみ、それは私どもにとりまして救い主イエス・キリストであります。寄る辺なき私、祝福から見放されたような私、世に小さくされた者の一人とされた私。
その私をかけがえのない存在として自ら十字架の犠牲とという計り難い大きな代価を払い、贖いとってくださった主イエス・キリスト。
このボアズなしたことから、主イエスの救いの御業に至るまで、そこには今も昔もそしてこれからも変わることのない父なる神の御愛と慈しみ、ヘセドの愛がその根底に流れているのであります。
「神さまからのプレゼント」
さて、今日の4章の後半にもどりますが。ここには「人々の祝福と神の祝福」と小見出しがつけられています。証人となった長老たちがボアズとルツを祝福します。その後、ボアズとルツに男の子が与えられました。
すると今度は女性たちが一斉にナオミを祝し、「主をたたえよ。主はあなたを見捨てることなく、家を絶やさぬ責任のある人を今日お与えくださいました。どうか、イスラエルでその子の名があげられますように。その子があなたの魂を生き返らせる者となり、老後の支えとなるでしょう。あなたの愛する嫁、七人の息子にもまさるあの嫁がその子を産んだのですから」というのです。
ボアズの祝福の祈りとナオミの祝福の祈り、そして長老たちの祝福の祈り。さらにそれは女たちの祝福の祈りにつながっていくのです。そしてそれが、ダビデの系図を表すとおりユダヤの祝福となり、その延長線上において主イエス・キリストの誕生によって神の祝福が全世界に広がっていったということです。まあ何とも壮大な祝福の連鎖をここに見ることができるわけでありますが。私たちも神の祝福に与っている者として、その祝福を広げ分かち合い、その祝福の輪に連ならせて頂きたいと願うものです。
最後に、16節に「ナオミはその乳飲み子をそのふところに抱き上げ、養い育てた」とありますが。
モアブからユダに帰郷したとき彼女は何と主に訴えたでしょう。「主はうつろにしてわたしを帰らせたのです。なぜ、快い(ナオミ)などと呼ぶのですか。主がわたしを悩ませ、全能者がわたしを不幸に落とされたのに」(1章21節)と主に訴え嘆いたのでした。
その彼女が、今や肉の血筋を上回るような神の恵みの子どもを授かり、そのことによって生きる希望を与えられ、魂が生き返るような思いを与えられた。すなわち、「快い」というナオミ自身を取り戻すことができたのであります。それはまさに大きな「神さまからのプレゼント」であったのです。
このルツ記から、ナオミ、ルツ、ボアズの人となりから、神の愛と慈しみに改めて気づかされます。主の救いに生かされた者の証しを、私どもも祝福の祈りと共に立ててゆく者でありたいと心から願います。