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独りではない

2013-09-01 14:22:23 | メッセージ
礼拝宣教 ルツ記1章1~18節 召天者記念

本日は召天者記念礼拝として先に主の御もとに召されていかれた会員・会友を偲びつつ、御遺族又、教会の兄弟姉妹と共に、復活の主に礼拝を捧げています。
昨年の9月以降、新たに5名もの主にある兄弟姉妹が主の御もとに旅立って行かれました。
ご遺族ご近親、そして教会にとりましてそれは寂しい別れとなりましたが。しかし今は天の神の御手に抱かれて、その魂は憩いを得ておられることと、信じます。

本日は、先程読んで戴いたルツ記1章から「独りではない」という題で、御言葉を聞いていきたいと思います。聖書の物語のなかでは男の人が主人公になっているものが殆どでありますが。このルツ記、また次に読む予定のエステル記は、女性が主人公として描かれています。
本日の物語の流れを少しお話しいたしますと。ユダの地にユダヤ人のエリメレクとナオミという夫婦と二人の息子マフロンとキルヨンが住んでいました。ところがユダの地に飢饉が襲ったので家族4人は、食物のある肥沃な異邦の地モアブの野に移り住むことにしました。ユダヤ人から見ればモアブは異邦の地であり、古くから敵対関係にあったのですが、何とか家族が生き抜いていくためには致し方ない選択であったのです。そのモアブの地で悲しいできごとが起きます。ナオミは夫であり、二人の子どもの父であったエリメレクに先立たれてしまうのです。その後、二人の息子はそれぞれモアブ人の女性オルパとルツと結婚しますが、何とこのナオミの二人の息子も次々と死んでしまうのです。その心境たるや如何ばかりであったことでしょうか。
そこでナオミはモアブの地から郷里のユダの地に単独で帰る決心をいたします。そして二人の息子嫁であったオルパとルツに、「あなたたちは死んだ息子によく尽くしてくれた。自分の里であるモアブに帰りなさい」と言うのです。それを聞いたオルパは泣く泣く里の家に帰っていきました。しかしもう一人の息子の嫁であったルツは次のように言います。「あなたを見捨てて、あなたに背を向けて帰れなどと、そんなひどいことを強いないでください。わたしは、あなたの行かれる所に行き、お泊りになるところに泊まります。あなたの民はわたしの民、あなたの神はわたしの神。あなたの亡くなる所でわたしも死に そこで葬られたいのです。」そうしてルツはナオミのもとを離れようとしません。ナオミはルツの同行の意思が固いのを見て、二人で寄り添うようにしてユダのベツレヘムに帰っていった、というのが本日のお話の概要であります。

先週祈祷会の聖書の学びにおいて、この箇所を読んだ後に、出席されていた二人の姉妹からこういうようなお話がありました。お二人ともそれぞれご主人を先に天に送られたご遺族です。お一人の方は、40歳でご主人を亡くされた方です。ご主人の死に対して「どうしてですか」と主に問うことが当初多くあった。またどうやって残された子どもたちを食べさせていけばよいのかという不安もあった。が、しかし私の場合は神さまの守りと導きがあり今がある。いろいろもがき苦しむこともあったが、それはしかし「主の御手の中」でもがき苦しんでいただけであった。そのようなことをおっしゃっていました。
もう一人の方は、8年前にご主人を亡くされた方です。故郷の東北を離れて大阪に来て、大阪教会にいたご主人と結婚。結婚してから4年に一度しか郷里に帰れなかった。が、しかし教会の人たちとの交わりによる支えと祈り、「教会の家族」があったので、里に帰りたいとは思わなかったと、おっしゃっていました。
すべてのことは「主の御手」のうちにあるとの信仰の確信。そこに至るまでには大変なご苦労と祈りがおありだったことでしょう。そこには教会の主にある兄弟姉妹のお支えと祈りがあったことでしょう。「神の家族」という祈りと支え。それは主イエスの救いの具体的現れであります。主にあって誰も「独りではない」。それが聖書の語る福音の力強いメッセージであります。

さて、本日の箇所で、私が特に心に留まったのは、一人で郷里のユダの地に帰ろうとしていたナオミに対して、息子の嫁であったルツがかけた、「わたしは、あなたの行かれる所に行き、お泊りになる所に泊まります。あなたの民はわたしの民、あなたの神はわたしの神」という言葉です。

モアブ人であったルツ。しかもモアブとユダの国は当時敵対関係にあったのです。宗教も人種も異なっていたモアブ人のルツとユダヤ人のナオミ。ナオミがルツにモアブの里に帰れというのはそういう事を考えた上での配慮であったのかも知れません。しかし、ルツはナオミと一緒にユダの地に行く道を選んだのですね。それは姑を独りにできないという心情や思いもあったのでしょう。しかし、それだけではなくルツはモアブの地においてナオミの神を信じて生きる姿に日頃から心動かされることがあったのではないでしょうか。むしろそのことが一番大きかったのではないでしょうか。ナオミの息子である夫との生活の上でも、生ける主を中心とした毎日は異邦人のルツにとって新鮮な驚きや感動があったのかも知れません。そういう中で、ルツは真の神さまを知るように導かれていったのでしょう。ナオミに対する「あなたの民はわたしの民、あなたの神はわたしの神」という言葉は、そのようなナオミの家族との信仰の生活から生まれた、ルツの証しの言葉とも言えるでしょう。

本日の召天者記念礼拝にご参列くださいましたご遺族の皆様のうちには、故人は教会員でクリスチャンであられても、ご遺族の皆様のうちにはクリスチャンでない方、あるいは他の宗教をもっておられる方もおられるでしょう。私は特に今日、故人の信仰を寛容に尊重してくださったそのような皆さまが、この場に集って頂けたことに心から感謝と敬意を表したいと思います。

話しは変わりますが。私がクリスチャンになる決心をしたのは高校1年生でした。その時、悩んだのは家が真宗で親も仏教であるということでした。長男であった僕がクリスチャンになると親のことも含め位牌のこと、法事や祭儀はどうしたものかといった心配がありました。それについて当時バプテスマ(洗礼)の準備クラスでお世話くださった牧師は、ご自分の体験を通じてのアドヴァイスをしてくださいました。「君の信仰は神さまとの関係として大事にすることが一番。ただし親の信仰も尊重してあげることは十分できる。例えば僕の場合は亡くなった母のための仏壇はおかないけど、母の信じていた信仰に基づき、母の小さな位牌は家において大事にしているよ」と、そうおっしゃいました。その言葉でクリスチャンになることに対してのわだかまりが晴れました。そうして高校1年となった春のイースター礼拝に、主なる神さまを信じてバプテスマを受けたのです。それまで、私がクリスチャンになることに反対していた母、さらに牧師となることに猛反対していた母でしたが、不思議なもので今ではクリスチャンであり、牧師となったことを喜んでくれています。

さて、本日は1章の19節以降は読みませんでしたが。ユダのベツレヘムにナオミは帰国すると、大勢のユダヤ人の同胞が集まってきて大騒ぎになったようです。ナオミの心は傷つき、私なんてどうでもいいんだ、神さま恨まれ見捨てられて不幸に落とされたんだ、と自暴自棄のようになり、もうナオミ(心地よいという意味)なんて呼ばないで、これからは(苦いという意味)マラって呼んでちょうだい、と嘆くのですね。そこに何も書かれていませんが、ルツはそのナオミの姿をそばで見ていたはずです。そしてただ黙々とそのナオミに寄り添い、落穂拾いをして日毎の食糧をつないでナオミを支えたというのですね。するとそこに思いがけずナオミの親戚のボアズとの出会いと助けが、神さまによって用意されていたというのですね。

このルツ記を読みながらつくづく思わされたのは、国の違い、生まれや人種の違い、世代の違いなど様々な違いを越えて、互いに支え合い、寄り添い合って生きる中に、主なる神さまが豊かにお働きくださるお方であるということです。
新約聖書のルカ福音書20章にですが。イエスさまに「神の国はいつ来るのですか」と質問がなされた時、イエスさまはこうお答えになられました。「神の国はあなたがたの間にあるのだ」と。それは死後の世界に限定されるものではなく、今この時に私たちの間、その関わりの中にすでに神の国、天の国は臨んでいる、というのですね。日々、わたしとあなたという人と人の間に、生ける真の神さまが臨んでくださる。そこに天の国、神の国はすでに到来しているというのです。私たちは神を信じ望む信仰の生活の中で、それを経験し、知ることができるのです。

今日、神さまは主を信じて天国に凱旋された故人を偲ぶ礼拝に、このようにお一人お一人を招いてくださいました。真の希望を与えてくださる主を賛美し、感謝します。わたしたちは、すべてを治め、導かれる、生ける神さまにあって、「独り」「孤独」ではありません。今ここに集われたお一人お一人が神さまにあるかけがえのない神の家族であることを共に喜び合い、今後も祈り合い、支えあって生きる者とされたいと願います。それが天に凱旋された故人の望んでおられる御遺志と信じます。
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