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年老いていくなかで

2013-09-15 15:49:57 | メッセージ
礼拝宣教 ルカ1章5~7節  敬老感謝

9月になったとはいえ未だに湿度と気温が高い日が続いていますが。それでも朝晩は幾分涼しくなり秋を感じるようになってきました。
先週の日曜日朝に2020年の東京オリンピック開催が決定したというニュースがあり、マスコミ、テレビは連日そのニュースで湧いていますが。その一方で、安部首相が福島の放射能と汚染水について「問題はないコントロールできている」という発言をしたことに対して批判が高まっています。当の東電側は「我々はコントロールできているとは言えない」とコメントしていますが。オリンピック開催ありきと、まずは景気のいい話をということが優先される中、被災地と被災者の方々の不安、復興は後回しにされるのでは、といった懸念はますます深まるばかりです。未だ30万人以上の方がたが避難生活を余儀なくされている現況です。被災地と被災者の方々が決して置去りにされることのないように、覚え続ける私たち、そして日本であって欲しいと心から願います。又、一日も早い原発事故の終息を祈ります。

「人生の秋」
さて、話は変わりますが。皆さまは秋といえば何を連想されますか。新米。魚ならサンマ、秋鮭。果物ならぶどう、梨、柿。食欲の秋、実りの秋という方も多いでしょう。又、芸術の秋。スポーツの秋。などとも言われます。そんな私たちの五感に働きかけて暑かった夏の疲れをいやし、冬の寒さに備えるに適した心地よい秋の季節も、近年は異常気象と地球温暖化で、夏が秋を喰ってしまい秋が非常に短く、すぐに冬がやって来るように感じます。まあそれでも、この時期は何を行うにも適しているといえましょう。
スイス人でクリスチャンの医師であるポール・トゥルニエは、「人生の四季」という著書の中で、秋を意外にも「老年期」と位置づけています。まあ老年期というものが何歳ぐらいとするのかという問題はありますが。40年くらい前の60歳と、現代の60歳とでは随分事情が違っていますよね。昔のおじいさん、おばあさんといった年代の方々が、今は現役バリバリで働いておられたり、街を闊歩しておられます。それどもやはり65歳からでしょうか。確かに定年や年金のことが身近になり、70歳代に入るあたりは身体的な衰えや心身両面が変化していく分岐点ともいえるでしょう。
トゥルニエは「人生を振り返ったり、自問していく時、これが秋で、夏の最中、活動の最中には、こんな問いは決して浮かんでこない」とそのように言っています。このように、人生の秋とは、「じっくりと我について熟考できる時」として捉えるなら、それは又人生の豊かな実りの時、味わいの時と言えるのかも知れません。
本日は特別に敬老感謝を覚えての礼拝を捧げています。
一つの、あるいは幾つかの時代を担い務め、様々なご経験を積んで来られた方がたに敬意を表すこの日。日本全国で感謝の思いが伝えられていることでしょう。
「聖書の敬老感謝」
けれども私たちは、この「敬老感謝礼拝」で単にこの日を世に倣うということではなく、すべてをお造りなり、統べおさめておられる主なる神さまの御業を仰ぎ見ています。
それは、信仰の諸先輩方を通して顕わされる神さまの御業であります。敬老たるゆえんも、その人のもつ経験や徳、振舞にのみ目がむけられるのであれば、いわゆる立派で、精進し、頑張って来た人を祝う日です。それを否定はいたしませんが。
しかし、私ども信仰者は、すべての命の源である主の御業を、その方の人生に垣間見せて戴くことで、主をたたえ、同時にその方の存在の尊さを知らされて、感謝の思いへと導かれます。
 けれども、老いは美化されるものではないという意見もあるかも知れません。実際、年老いていくことによって生じる様々な問題があります。私も小倉に母がおりますが。最近随分と、もの忘れが増え同じ事を言う様な症状が出てきています。そういう親の介助やケアについて現実の問題として間近にきていることも確かであります。逆にご高齢の皆さまも、ご家族の事など様々な問題がおありかと思います。年老いていくなかで、身体的不自由さ、またそこから精神的な孤立感をも身に負うようになります。それは誰もが向き合わなければならない人生の課題でありましょう。

「年老いていくなかで」
私たちは、幸いなことに人の生涯を司っておられる主と出会い、そのおしえをと平安の道を「聖書」の御言葉から戴いて歩む恵みが与えられています。
本日は、ルカによる福音書1章5~7節から御言葉を選ばせて頂きました。
ここは、主イエス・キリストの誕生に先駆け、悔い改めのバプテスマ(洗礼)を説いたバプテスマのヨハネの両親ザカリヤとエリサべトの老夫婦についての記事であります。
アドヴェントの折に読むお馴染みの場面でありますが。二人の老夫婦は、天の使いから「男の子が生まれる」とお告げを受けるのです。7節にあるように、「彼らには子どもがなく、二人ともすでに年をとっていました」。そのことで夫ザカリヤは、天の使いのお告げを信じて受け入れることができず、その不信仰のゆえにしばらく口がきけなくなったというのですね。それと似たような記事が旧約聖書にもあります。信仰の祖アブラハムとサラのことです(創世記18章)。主はこの老夫婦に現れ、男の子(イサク)を授かるとの予告なさいますが、妻のサラは思わず「笑った」というのです。当時アブラハムは100歳、サラは99歳でした。ザカリヤがルカ1章18節で、「わたしは老人ですし、妻も年をとっています」と答えていますが。それはアブラハム・サラの老夫婦にも共通する、自然な思いであったのです。
ここで問題になったのは、「年老いていた」という現実であります。
「年老いていた」という中に、先程も触れましたように、身体的、さらに精神的にも物事を消極的、あるいは悲観的に捉えがちになり、次第に諦らめ悟るような境地、仏教では諦観(ていかん)という言葉になるのでしょうが。ザカリヤも又そのような心境になっていったことが、18節の「わたしは老人ですし云々」という言葉に表れています。
人は年老いていく中で、自分のもっていた可能性や能力が次第に剥ぎ取られていくように思える経験をいたします。けれども、それはほかならぬ神ご自身がそのように人をお造りうになられているのです。それはザカリヤのように、どんなにその人が神の前に正しくとも、主の掟と定めとをすべて守り、世間的にも非の打ちどころのないような人であっても例外ではありません。立派な信仰があるからいつまでも老いない、弱らないということはないのです。
しかし、ここのところが大事なのですが。そういう弱さ、老いといった人の思いや力ではどうすることもできないような状況の中に、実は神さまのいのちの言葉、神さまのお約束が臨んだのだ、というのが聖書の語る救いのメッセージなのです。人間にとってみれば弱さがある、足りないことがある、欠点がある。そのことで悩み、苦しむことは確かにございます。しかし神さまは、そういう私ども弱さを持っている者、負い目を持つ者、希望すら持てないような者のうちに、臨んでくださり、いのちの御言葉を送り、希望の約束をしてくださるのです。

「ただ信じ、受ける」
さて、今日のエピソードの中でザカリヤは天の使いの御言葉をすんなり受け入れることができず、天の使いに対して「何によって、わたしはそれを知ることができるでしょうか」と尋ねていますね。私たち人間は確証を得たくて、何かとしるしを求めたがります。
けれども聖書は、見えるから、確証や証拠があるから信じ、受け入れるというのは信仰ではないというのです。主の使いの言葉がそれを表していますね。信仰は、ただ神の御言葉をまっすぐに信じ、受けることでしかないのです。ヘブライ11章1節に、「信仰とは望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです」とあります。そのように「まだ目には見えていないが、事実としての神の御手の業を仰ぐ」ことこそ、重要だというのが聖書のメッセージです。
 私たちの主である神さまは、世にあって弱く小さくされた人、又、負い目のあるような人、不安や恐れを抱く人、希望を持つことすら困難な人のところに臨まれ、希望の御言葉と救いをお与えくださっています。それは昔も今もこれからも変わることはありません。ここに私たちの希望があります。
最後になりますが。信仰者にとって年老いていくことは、神さまのご臨在に益々与っていくチャンスを与えられていくということですね。失礼かもしれませんが。年老いて体力、気力様々なものが剥ぎ取られていくように感じられる中で、神さまは恵みの御業を照らし出す器としてお用いになられるのです。
私たちの大阪教会において、「敬老感謝」にふさわしい兄姉がたくさんいらっしゃいます。主がそれらの兄姉を益々祝福されますよう祈り、私たちもまた信仰者として後に続いていく者とされてきたいと思います。すべては主の御手のうちにあることを、信じ、確信して。
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